鮫の住処
ブルースクウェアのトレードマークとも言える鮫の模様を指しているのだろうと帝人は思う。
「鮫って他の魚とはいろいろ違うんですよ。歯が生え変わったり、交尾したり。浮き袋はないし、血の匂いにだって敏感だ。古代から生き残ってきた、頭のいい魚」
「だから?」
「俺らを他の、そこら辺に泳いでる魚と一緒にするな、ってことです」
ぺたん、と青葉が床に腰を下ろす。見上げた瞳は仄暗い青であるようで、鮫の話と相まって不気味に見えた。
頬が引き攣る。四肢は気圧されたように動かない。浅く早く息が漏れた。心臓が煩いほど音をたてている。
ここにきて初めて怯えたような色を見せた帝人に、青葉はやんわり微笑んだ。
「先輩、鮫の好物って知ってます?」
笑顔のまま穏やかな声で言うそれに先程までの不気味な雰囲気が霧散した。帝人は少し息を吐いて「知らないよ」とだけ言葉を紡ぐ。それが本物の鮫であろうと青葉達ブルースクウェアのことを指しているのであろうとどちらでも良かった。ただ先程までの異様な気配をさっさと失くしてしまいたかった。
青葉はそうですか、とやはり笑顔のまま言う。うん、ごめんねと帝人はいつもの調子でぎこちなく首を傾げた。
「じゃあ教えてあげます」
するりと青葉の細っこい腕が帝人に伸ばされる。冷たい手だった。
「もがいてもがいて苦しむ獲物こそ、鮫にとっては美味しい御馳走なんです」
ひたり、首筋に冷たい手が下ろされた。右手は体側にぶらりと垂れさがっている。青葉の左手だけが冷たく帝人に触れ続けていた。
ぐ、っと青葉は左手に力を込めた。気道を押し潰す感触がする。微かな心臓のリズムが掌に伝わった。帝人は怪訝な顔をしている。それでもじわじわ力を込めるとやがてその顔が苦しげに歪んでいった。
けれど所詮、息を止めるには至らない。
「片手じゃ、人は殺せないよ」
「知ってます」
青葉は首を握っていた手を解いた。しかし帝人から離れる気配は全くない。
「青葉君・・・君は、一体何がしたいの」
こつん、無意識に手を遣っていたポケットで、爪先が固いものに当たる感触に帝人ははっとした。ズボンの左ポケットに何か、棒のようなものが入れっぱなしになっている。
ズボンは帝人が履いていたそのままである。記憶違いでなければ黒インクのボールペンが一本、入っていた筈だ。
眼前に迫ってくる青葉の向こうに見える扉は微かに開いている。後ずさりながらポケットに手を入れた。硬い、細長くすべすべとしたプラスチックの感触が指先に伝わってくる。何故だか知らないがズボンの中身までは検査されなかったらしい。
扉は僅かに開いている。鍵はかかっていない。この場には青葉と帝人以外いない。
ぎゅう、とボールペンを握り締める。ノックタイプのそれを、音を立てないように押し出した。ごろりと空気が喉を滑り落ちる。
青葉の隙さえつけば、少なくともこの部屋を出ることができるかもしれない。壁と同じ暗い色をした扉の向こうには何もなく、白い色ばかりがあるようだった。それでもこの窓も何もない部屋にいるよりは脱出の手掛かりがあるだろうと帝人は思いを巡らす。帝人はまだ諦めてはいなかった。
「帝人先輩を守りたいんです」
青葉はぎゅうっと帝人に抱きつく。傷痕の残る左手で縋る。
帝人は左手に持ったボールペンをきつく握った。右手に持ち替える余裕はない。威力はずっと劣るだろうが、とにかく青葉の隙をつければいいのだ。
体を寄せた青葉は帝人の首筋に顔を埋める。生温い息がかかって、そっと目蓋が伏せられたのを見止めて帝人はためらいなくボールペンをポケットから抜き取った。振りかぶる。青葉は身じろぎもせずしなだれかかっている。白いうなじが目についた。仄暗い中にぼんやり浮かんだようなそれ目がけて、帝人は力いっぱい振り下ろした。
ぱし、軽い音が腕から伝わった。ペンの切っ先は青葉に届いていない。握っていた指が解かれる。ボールペンが重力に従ってころりと落ちた。
軽く青葉が笑う気配がして体が傾いだ。押し倒される。いつの間に拾ったのか少し前まで帝人の手にあったボールペンが青葉の右手に握られている。背中が床にぶつかる感触がして、帝人は顔を顰めた。開かれた左手が床に落ちる。見開いた視界で青葉が口元を歪める。状況を把握しないまま、ボールペンの振り上げられた手が違わず帝人の左手に向けて振り下ろされた。
ぷつっ。
熟した果実の皮が弾けたような些細な音がすぐ近くで聞こえた。
「あ」
左の掌から生えたボールペンを視認する。
「あ、が、っあああああああ!」
一拍遅れでやってきた痛みに反応するように喉から声を飛び出た。悲鳴というには擦れたような壊れたような声。喉を通るざらついた空気が声になった。
左手は激痛と共に冷たいタイルに密着している。心臓の鼓動に合わせて血液がじくじく湧き出しているらしい。痛いほどに見開いた目いっぱいに、暗い天井を背景にした青葉の愛らしい顔が映った。
「おそろいですね」
ひらひら傷痕を見せつけながら青葉は言う。帝人の掌と床とを縫い止めたボールペンを引っこ抜いた。
「駄目ですよ先輩、不意打ちは予想されてないから不意打ちって言うんです」
青葉のその言葉に、帝人はこれもまた予定調和の範囲内だったということを悟った。黒髪の向こうには薄く開いた扉がある。漏れ出す光がある。ひょこりと覗いた特徴的な青い目出し帽の青年が扉に手をかけた。帝人の目の前でゆっくりと扉は閉まっていく。がちゃん、重々しく鍵のかけられる音が響いた。
青葉はうふふと笑って、帝人の左手に頬を擦り寄せた。ぽっかり空いた赤黒い穴から血はだくだくと流れ落ちている。自然、青葉の頬も帝人の血で汚れていく。それでも嬉しそうに笑う青葉を帝人は狂っているとしか表現できなかった。
ああ、自分は飢えた鮫の餌になったのだ。