首輪に繋がれた猛獣の話
まどろみの中で温もりを感じる。
この朝、平和島静雄は人生で初めてともいえる幸福の中で目を覚ました。
腕の中の暖かな躰は昨夜の記憶そのままで、それが夢ではなかったのだと教えてくれる。
静雄のことを抱き締めて眠ると言った少年を宥めすかして腕の中に閉じ込め、囲い込んだまま眠りについた。
子供のように高い体温はあまりにも心地良くて、幸せのあまり眠れないかもしれないと思っていたのに、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
意識が戻った今もまだ、その温もりは静雄の胸に凭れ掛かるようにして寄り添っている。
暖かくて湿った呼気が胸元をくすぐる。
くすぐったく感じるのは肌の表面だけでなく、胸の奥もだ。
このこそばゆい感覚を幸せというのだと、今の静雄にはわかっていた。
思わず細い躰を抱く腕に力を込めてしまうと、少年が小さな声を上げながら身じろいだ。
起こしてしまったかと力を緩めて様子を窺っていると、少年はゆっくりと目を開いた。
「悪ィ。起こしちまったな、帝人」
「――ぃえ……おぁよぅござ、ます……」
半分以上意識が落ちている声で挨拶をしてくる少年に愛しさが込み上げてくる。
可愛い。すごく可愛い。ぎゅっと抱き締めたい。
そんな想いも一緒に込み上げてきたが、痛い思いをさせるのは本意ではない。
静雄は抱き締める力を強める代わりに、柔らかそうな頬に舌を這わせた。
「――くすぐったぃれす、しずぉさん――」
「目ェ覚めたか?」
「んん~……」
へにゃりと表情を崩しながら帝人は片手を伸ばして金色の髪を優しく梳いてくれる。それがまた気持ち良い。
お礼という訳ではないのだが、更に顔中あちこちべろべろと舐めると、帝人は小さく笑い声を上げた。
「ダメですよぅ、静雄さん。顔も洗ってないんですから」
「いいじゃねえか」
「――ダメです。起きましょう。静雄さん、今日もお仕事でしょう?」
完全に目が覚めてしまったらしい帝人が起きようとするのを、静雄は許さなかった。抱き締めている腕を解きさえしなければ、常人の力しかない少年では抜け出すことはできない。
帝人は口では駄目だと言いながらも、表情は綻ばせている。なのに手放すなんてできる筈もない。
案の定、拘束を続ければ甘い声で名前を呼ばれた。
「静雄さんは、本当に甘えん坊なんですねえ」
「甘やかしてくれんだろ?」
「はい。静雄さんがこれを着けてくれている間は」
帝人の細い指が静雄の首に伸ばされる。しかし触れることはない。
帝人の指が触れたのは、首に巻かれた真珠のように輝く綺麗な首輪だ。数ミリの厚さのそれが指と首筋との接触を阻んでいる。
その首輪はシンプルなデザインながら、ひと目で材質の良さが見て取れる品だった。余計な装飾が着いていない分、品質の良さが際立っているような気さえする。
それは帝人が静雄の為に見立てた逸品だった。
「静雄さんがこれを着けてくれている間は、僕が静雄さんの飼い主です。ですから思い切り甘やかします」
くすぐったい台詞に静雄は表情を緩めると、顔を寄せて囁いた。
「甘やかすだけでいいのか? 付け上がるぞ? 躾も必要なんじゃねえのか?」
甘ったるい声で警告のような台詞を注ぎ込んだが、帝人は軽く首を傾げただけだった。
「僕がこれまで世話したことがあるのは小学校で飼っていたウサギだけですので、可愛がるだけ可愛がって、躾をしたことはないんですよね」
「じゃあ、首輪も着けてやったことはねえのか?」
「はい。静雄さんが初めてです」
「そっか。俺が初めてか」
嬉しい。そんな些細なことがすごく嬉しい。
静雄は自然に弛んでしまう頬を引き締めることすらできずに、にやけた表情を晒してしまう。さぞかし間抜けな顔だとは思うのだが、改めることは今は無理だ。
「じゃあ、これからも他のにはすんな。俺だけにしろ。俺以外には着けんな」
「静雄さんがいる間は、他のものは飼いませんよ。だから、逃げ出したりしないで下さいね?」
首輪は着けたけれど、鎖で繋いでいる訳ではないし、その首輪だって簡単に外せてしまう。それにいつでも着けている訳じゃない。逃げるのは簡単だし、静雄の自由だ。
そう言う飼い主の表情は、逃げないという自信を持っている訳でもなければ、逃げられたら哀しいと眉を下げている訳でもない。
唯、愛しいと、可愛いと、柔らかく笑んでいるだけだ。
静雄は何故か嬉しくなった。
だから広い額に口付けた。
衝動的な行動が、今は許されている。帝人が首輪を着けてくれている間は。
「逃げねえよ。逃げる訳ねえだろ」
こんなに嬉しいのに。
小さな頭を抱え込むように抱き締めると、そろそろ本当に起きて下さいと言われてしまった。
静雄の出勤時間は遅いが、それでも確かに起きた方が良い時刻ではある。
しかしぎりぎりまでこうしていたかった為、静雄は飼い主の言葉を聞き流した。
幸福な時間を引き延ばしたいと思うのは、当然のことだろうと静雄は信じていた。
平和島静雄に首輪を着け、鎖で繋ぎたいと目論む者は、実は昔から少なくはなかった。
それは静雄の手綱を握り、意のままに操り、己の為に利用したいと考えるような輩で、静雄に対して様々な誘いや脅しを掛けてきたものだった。
当然静雄はそんなムカつく輩はすべて潰してきた。相手も静雄を制御することは不可能なことを知ると静雄を潰しに掛ってきた。
その筆頭がノミ蟲と蔑むあの男なのだが――
「もぅ――静雄さんはぁ……」
しつこくつむじにキスされるのがくすぐったいのか、子供がむずかるように甘ったるい声で静雄の名を呼ぶ。その声に静雄の方がくすぐったくなる。
あのときにはこの声は、甘さの欠片も見せず、冷静にはっきりと静雄に言った。
静雄を恐れることもなければ引けを取ることもなく。
『僕が静雄さんの飼い主ですから、この首輪を着けている間は、静雄さんのすることはすべて僕の責任下にあります』
『静雄さんがなにをしても、なにを壊しても、誰を傷つけても、責任は静雄さんではなく僕が負います。だって、僕が飼い主なんですから』
『僕はまだ学生で、静雄さんみたいな大人の男のひとに完全に頼って貰えるとは思っていませんけど、せめてこの首輪を着けている間だけは、僕に全部預けて気を休めて下さい。遠慮も気遣いもしなくていいです。自由に振舞って下さい。僕は静雄さんを可愛がりますし、甘やかします。そして責任を持ちます。そういう意味の、贈り物です』
そんな風に言われたのは、そんな風に求められたのは、初めてだった。
静雄の力を利用するでもなく、むしろその力にさえも責任を持つなんて、そんなことを言う相手は初めてだった。
尊敬する先輩であるトムでさえ、静雄の力と悪名を利用しているというのに。そして、仕事で壊した物の弁済も静雄の自己負担だ。
わかっている。この破壊しか生まない力も、このキレやすい性格も、すべて自分の責任だ。物を壊せば自分で責任を持って弁償しなければならない。
会社にも負わせる訳にはいかない。立て替えて貰えているだけでも充分感謝している。
作品名:首輪に繋がれた猛獣の話 作家名:神月みさか