クローゼット攻防戦
(何時まで自分が一番だったのだろう)なんて、どうしようもないことを考えている。そもそもアレの中に明確な順番なんて存在しないのだろう?そんなもの、百も承知だ。僕らの存在理由がそもそも、そうさせないではないか。
こうして彼の家で、彼が作る食事が出来るのを待つだけで、もうそれで…しかし、そう云うわけにはいかない。そこで折れることなんてできない。持ち合わせた支配欲と独占欲が疼くのは性分なのだ。
ベッドの上、寝返りを打つ。気持ちのいいリネンの肌触り。昨日干してくれたのか、寝具からは太陽の心地好い匂いがした。呼吸をするとそれらが肺にはいっていく。灼け付くような日差しの、この土地の太陽は彼にとても似ている。優しく抱かれているみたい、とおもい、しかし抱きしめてくれる腕は無いじゃない、と目を瞑った。ロヴィーノには抱きしめるのかなと少しだけ考え、それは止めた。どんな顔してどんな優しさで、なんて想像もしたくなかった。点は染みのように広がっていく。自分はなんて女々しいのだと思わされるばかりだ。あぁ、とてもいやだ。
遠くで子守唄が聴こえて目を覚ます。
フランシスが、うとうとと身を起こせば、傍らでアントーニョがベッドサイドに腰掛け、笑っていた。瞬きを繰り返すフランシスに、起きてしまったん?と彼はとても上機嫌な表情をみせた。
「起こしてよ」
声は思いのほか小さく響いた。咽がはりついたみたいにひりひりしていた。瞼はまだ閉じていたいのか、意思に関わらず瞬きを繰り返している。
眠そうやねぇ、そう言って日に焼けた大きな手の平が、フランシスのプラチナブロンドをそっと撫でた。
「やって、ぐっすり眠ってたし疲れてるみたいやからちょっと眺めとった」
よしよしをするみたいに頭を撫でられ、フランシスに柔らかい声が降った。静かな祈りのようだった。太陽の匂いがする。呼吸をすると肺いっぱいにそれが入って、彼で満たされているみたいだと思わずにはいられない。それはとても素直に、子供みたいに。そう思えることなんてフランシスの普段の生活の中ではもう有り得ない。
アントーニョは例に漏れず畑に行っていたらしく、その辺の話を傍らでとめどなくしている。フランシスの思考に沿わせる様子もなく、トマトの収穫がどうこう、ハーブを貰った話、オリーブの育ち具合の話を順に、楽しげに。呼吸をするように体内にコトコト入ってくるそれらの言葉たちは、優しい子守唄のようだといまだけは思える。
聞きながらフランシスは、シーツをぎゅ、と抱きしめ彼がそれに気づいてくれるのを待った。わざとシーツのきぬ擦れの音を立てて。淋しいとか、その辺の感情を仕草にぶつけた。
アントーニョはベッドに腰掛け、体を添わせる様にそこにいた。分かってはいたけれどそんな細やかな仕種に気づいてはくれない。いまはオレンジの話をしている。フランシスは自身と彼のこころの差にどんどんと可笑しくなって、終いには、ふふふ、と、決して相槌とは関係の無いタイミングで柔らかく笑い、脈絡もなくアントーニョの腰に手を回した。
「甘えん坊さんなん?」
腕が余る程の細腰。それをぎゅ、と抱く。そうよと言わんばかりの強さで。だってそう、甘やかしてくれるのは何時だって彼だけだった。だっこ…と、アントーニョのシャツに窒息しそうな程顔をつけ、うるさい、と、もぞもぞ頷いた。
「よしよし、フランシスはいいこやなぁ」
アントーニョがくすくす笑いながら髪を撫でる。フランシスがたまにこうして無条件に甘えてくることをアントーニョはちゃんと理解していた。それはどうしてか可愛く映ったし、何しろ愛しかった。そんな時、国益抜きで、人間由来の部分で、頭を撫でてあげたいと、そう思わずにはいられなかった。
(誰かこの人を愛してあげて、彼は何時だって乾いているのだから)
「トォノぉ、だっこぉ」
「だっこて、しとるやん」
ちょいきもちわるいで、自分。そうアントーニョが言うとフランシスは頬を膨らませ微かなブーイングを返す。そこに、それや、それ!と笑い声が重なる。そしてどちらも目を細めた。ずっと髪を撫でていたアントーニョの手の平はいつしかフランシスの背中に移り、いまは脈拍の速度であやすように背を叩いている。トントン、と心地のよいリズム。寝ちゃうよ、とフランシスが呟いた。どうするの、そんなに優しくて、と。
「ちょうどええ時間やし、そのままシエスタしたら?」
「やだ。お腹空いたし、昼寝は中庭って決めてきたの!」
フランシスが顔を上げてささやかな抗議をする。初めて目が合い、「自分パティオ好きやなぁ」とアントーニョが笑った。
「ねぇ、あのさあ」
彼の腰に絡みついたまま、フランシスがおずおずと切り出した。子供みたいに彼のシャツの裾を引っ張って。
「なん?」
「今度のEUの会議さぁ…アレ、着てよ」
アレ…と足をばたつかせた先、大きな紙袋、ふたつ。
「持ってきてくれたん?」
「持ってきたの!ねぇ、わざわざパリからよ!新作!!秋冬の。一番乗り!」
「そうなん、」
アントーニョが背を叩くのを止め、腰を落としてそれらに手を伸ばした。フランシスは抱いていた腕を解いて、彼はそのまま胎児の様にまるまった。その姿を知ってか、知らずか。アントーニョはすっかり袋の中身―スーツ一式の箱とシャツとネクタイの箱―を引っ張り出し、その下に寝かされていたヴィンテージワインまでをも発見していた。 フランシスは丸まったまま喋るものだから、声はくぐもり、まるで恥ずかしくてもぞもぞ呟いたみたいにアントーニョの耳に届く。
「ねぇ、だからぁ」
「うっわ!めっちゃふっるいやつやんー!ボルドーや!なあなあ今何年やっけ、これ…いや、でも凄ない?まだあったんやぁー!」
「おにーさんクローゼット見たらへこんじゃってさー、恥ずかしい訳なんですけど!せっかくお前にね」
「どしたん、まーじで!なんかあるん?あれ、今日何かあったっけ?なんかの日?誕生日は先月やんなぁ‥最近暑いからあかんねん、なんでもすぐ忘れてしまってな。この間もいっこ行事忘れてしもうて、国王にお呼びだしやで、もーホンマに」
「ほんまに!」
「なん?」
「きーてよ!っつーかそれ、そのボトル!もう、エッフェルから飛び降りる勢いで持ってきたのよ!ばっか!ほんっとばか!」
「ん?きーとるで?」
アントーニョが、今にもラベルが剥がれ落ちそうな重厚なボトルを木箱から丁寧に出した。
「着て欲しいんやんなぁ。おおきに、たくさん着るでー!」
あと、これも、俺と空けたくて持ってきたんよね、会うの久々やもんねー。そう言い、箱の蓋を閉めて笑う。その傍らには件のスーツ箱が重ねられ、置かれていた。
「ばか」
(ホントに、もう、馬鹿だ。彼も自分も。こんな不意に喜ばして、どうするの。あぁ、本当に、全く。)
フランシスは身を起こしてめいいっぱいアントーニョを抱きしめた。こんなことでいちいちこころが揺さぶられるとか。
「着てよ…つか、マドリッドまで持って帰って!」