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それは何も無いところからはじまった

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 さわさわ、と。木々が囁くように風に煽られて音を立てる。
 アーサーは枯葉を踏みしめ、山の奥へと歩き進んでいた。
 海を渡り、日本へと到着してあてもなく旅をしていたときに耳にした噂。
 とある山に住まうという妖狐の話。
 そんな根も葉も無い噂になんとなく興味を惹かれ、こうして山中を歩いているわけだが。
「……そもそも、あくまで噂なんだよな」
 気づいたときには既に遅く。夕暮れ時で辺りは暗くなり始めている。
 進めていた歩を一度止め、アーサーはため息を吐いた。
 日本へ訪れたのはほんの気まぐれだったのだ。仕事に明け暮れる毎日に嫌気がさして勢いで飛び出し、船に乗り込んで長い時間をかけてやってきた。その結果が―――
「山で遭難とか、洒落にならねえよなあ……」
 木にもたれかかってしゃがみこんで頭を抱える。我ながら間抜けたことをしたものだ。日本には知り合いもいない。というか、そもそも友人と呼べる間柄が指折り程度しかいない(むしろいないような…いやいやそんなことはない!)アーサーにとって、これはとてつもないピンチではないだろうか。誰に知られることもなく山の中で死に、骸となる。……これは、本気で笑えない。
 がばっと顔を上げて立ち上がるなり、アーサーは脱兎の如く山を駆け下り出した。こんなところで死ぬなんて真っ平ごめんだ。足場の悪い地面で足を滑らしそうになりながらも、どんどん山をくだっていった、その時だった。突出していた石に気づくのが遅れ、バランスを崩して転倒した。受身を取れないまま、ゴロゴロと傾斜を転がり続けて幸か不幸か樹の幹に叩きつけられ止まることが出来た。しかし勢いが強く、アーサーは詰まる呼吸に目を見開き口を開閉させて喘ぐ。身体を丸めて激痛に耐えながら咳き込む。意識が朦朧とする。起き上がれず、倒れたままそうしていると、今度は雨が降りだした。
「あー、…っ、くそ。さい、あく……だ」
 咳する合間に悪態を吐き出し、アーサーはふっと意識を手放した。



 ぱちり、と目を見開くと視界に飛び込んできたのは木目の天井だった。
「……」
 寝起きの頭で思考が働かず、状況把握が追いつかない。
  ……確か、俺は山の中で倒れていたような…。そんなことを思い出していると、右側の方でパキン、と炭火が音を立てた。無意識にそちらへ顔を向ければそこには見知らぬ男が囲炉裏を挟んで座っていた。相手もこちらが意識を取り戻したことに気づいたのか、立ち上がると歩み寄ってきてアーサーの傍まで来ると膝を折った。すい、と伸ばされた手がアーサーの額に触れる。ひんやりと冷たい相手の手に心地良さを覚えて眼を閉じる。
「雨に打たれて風邪を召したようですね。一晩ほどこちらで安静にしていると良いでしょう」
 低く穏やかな声がそういった。閉じたまぶたをゆるりと持ち上げると、真っ黒な双眸がこちらを見下ろしていた。この家の持ち主か。
「助けてくれたこと…礼を、いう」
 掠れた声で告げれば、微かに笑う気配がした。額に乗せられていた手が退けられ、代わりに濡れたタオルのようなものが置かれた。
「無理せず、今は休まれると良い。おやすみなさい」
 その声を最後に、アーサーの意識は再び暗転した。
 次に目を覚ましたときは、前よりもはっきりとした思考をしていた。上半身を起こすと、額から落下する布。右手で拾い上げると、まだ少し湿っていた。こまめに取り替えてくれていたのだろうか。
 横たわっていて把握できていなかった自分の周りの状況を確かめる為にぐるりと見回す。すぐ横にある囲炉裏。囲炉裏には火がくべてあり、暖がきちんと取られていた。その囲炉裏越しに扉が見える。それ以外は特にこれといって物は置かれていなかった。
 生活感が感じられない室内に小首を傾げていると引き戸が開かれた。現れたのは黒髪の中性的な顔立ちをした黒髪の人物だった。はた、と目が合うと目元を和ませた笑顔が返って来る。
「お加減はいかがですか?」
「あ、あぁ、熱は引いたみたいだ」
「それは良かった」
「看病してくれたんだよな、すまない。助かった」
「いえいえ。山中を歩いていたら雨が降っているというのに人が倒れていたから驚きましたよ」
あぁそれと、申し遅れました。私は本田と申します。自己紹介をされて、アーサーも慌てて名乗る。
「俺はアーサーだ。アーサー・カークランド」 
「アーサーさんですね。異国の方の名前というものはいつ聞いても不思議な響きがします。と、すみません。失礼を」
「いや気にしてない。本田…サン、は、ここにひとりで住んでいるのか?」
「ふふ、呼びやすいように呼んでください。えぇ、ひとりで暮らしています。人里はどうも苦手なもので」
 アーサーの問いに本田は黒髪を揺らして頷いた。さらりと流れる髪色と同じ深い黒曜石色の双眸がすぅと細められ、アーサーを捉える。引き込まれるようなその瞳に、不覚にも心臓が高鳴る。
「体調が回復次第、山を降りると良いでしょう。ここは徒人が訪れて良いような場所ではない」
「どういうことだ?」
「言葉の通りです。大方、貴方も噂に乗せられてきたのでしょう?」
「……それは、そうだが。だがそれってつまり」
「噂は本当です。故に引き返しなさいといっているのです」
「本田はここにいて大丈夫なのか?」
「私は長いながい間ここに住んでいますから」
「長いながい間って…どのくらいだよ」
「長いながい間ですよ」
「……年数は」
「はて、ど忘れしてしまったようです」
「都合が良いな」
「恐れいります」
 アーサーの問いをかわした本田は会話を切ると、立ち上がった。
「朝餉を持ってきます。少しでも胃になにかいれた方が良いでしょう」
「…助かる」
 アーサーがいうと、本田は少しだけ笑みを見せて部屋を出て行った。
 ぱたん、と音をして引き戸が閉まったのを確認してからアーサーはふむ、と顎に手を添えて考えはじめた。
 とりあえず、いくつか情報は得られた。
 まず、この山には本当に妖狐がいるということ。そして本田はその山に長いこと住んでいるらしいということ。
「しかしあいつ、何者なんだ…?そもそも、男なのか?」
 首を捻り、アーサーはひとり唸る。短く切りそろえられた黒髪と、少し大きめの瞳が幼く見えた。着物を着ていたので胸元のふくらみも分かりづらくて判断がつきかねる。しかしだいぶ落ち着いた雰囲気と、低い声音からするとやはり男か。
「……謎が絶えないな」
 導き出した結論は、結論というには到底至らないものだった。



 本田が準備をしてくれていた朝食はシンプルなものだった。しかし、味は抜群に美味しく、病み上がりにも関わらずアーサーはぺろりと平らげてしまった。
「食欲もお有りのようで、安心しました。これなら早く山を降りれるでしょう」
「……」
「なにか?」
 本田の言に思わず黙ったアーサーに、本田はお茶を差し出しながら静かに訊ねる。
「なあ、本当に妖狐はいるのか?」
「えぇいますよ」
「ひとを喰うのか?なんで本田はこの山にいて平気なんだよ」
「おやおや随分と好奇心が旺盛な方ですねえ」