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ネイビーブルー
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たとえばの話をしよう

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恋とは何だ。それに、後の時代のとある作家はこう答えた。恋とは罪悪である。

 端正な顔を真っ赤に染めた青年を、ルシフェルは幾分冷静な頭で眺めていた。思わぬ事態に動揺しない程度には、彼の精神は成熟している。だが、まさかこんなことになるとは思わなかった。驚いたリアクションすらとれずに固まってしまったのは、案外焦っているからかもしれない。
「好きなんだ」
 実直な青年は気の利いた言葉の一つも知らず、ただそれのみを繰り返した。まあ、彼が言葉を尽くして愛を語ったらそれはそれでびっくりだ。ただ、今の状態がもう驚きといえばそうなのだが。時を巻き戻すためのルシフェルの手は地面に縫い付けられており、逃げるための翼は自らの体と地面に挟まれて出すことすらままならない。第一、体格差のあるイーノックに押さえ込まれ、ルシフェルは逃げることはおろか距離をとることすら出来なくなっていた。

 何が原因でこうなったのかと考えてみると、些細なことであったような気がする。その日もいつもと同じように堕天使の使いたちと戦い、疲弊したイーノックを癒すためにルシフェルはかがみ込んだ。倒れた彼の汗を拭いてやり、傷と疲労を癒すために掌をかざす。
 時間は既に夜になっていた。大きな月が夜空にあり、イーノックの金色の髪が月明かりを反射して仄かに煌めいていた。
「綺麗だな」
 手をかざしたまま、そんなことをいったように思う。それまで大人しく治療を受けていたイーノックは瞠目して、それから「どうして、そんなことを」と唸るように言った。何か悪いことをいってしまったかと考える間もなく、体勢が反転していた。
 手を封じられたのは痛い。しばらく彼に付き合うしかなさそうだ。

 ……さて。彼が言う、好きとはなんだ。
 愛しているということか。ならば、ルシフェルはイーノックを愛している。神を愛するのと同じく愛している。他の天使たちも、人間たちも彼は愛している。イーノックは他の人間たちよりは特別だが、神と天秤に掛けたのなら即座に神に傾くだろう。天使であるので、当然だ。
 だがそんなことは、イーノックは知っている。彼は天界の書記官として多くの天使たちと接してきたのだから、天使がどういう生き物なのかは分かっているはずだ。天使はなにも嫌わない。ただ神に仕え、神を愛すのみだ。
 それに彼の言う「好き」がもし友愛のことであるならば、わざわざルシフェルにそれを告げる意味はない。イーノックがルシフェルを大切に思っていることをルシフェルは知っているし、ルシフェルがイーノックを慈しんでいることをイーノックは知っているからだ。それは言葉にしなくても自明の理というものだ。
 よって、あえて言葉にして「好きだ」と告げるのは、それ相応の理由があるからである。そしてその理由として考えられるのは、愛ではなく、恋の観点からイーノックがルシフェルを愛しているということだ。
 そこまで回りくどく考えて、ルシフェルはため息をついた。彼が感じたのは、高揚でも落胆でもなく、焦りだった。その内心を十二枚の羽で覆い隠し、ルシフェルは努めて冷静に言う。
「そうか、イーノック。それで……君は私にそれを告げて、なにを望む?」
 嬉しいでも困るでもなく、ただ問いかける。イーノックは案の定、戸惑いの表情を浮かべた。
「なにを……って、私は別に」
「恋という概念を、私は知識として持っているつもりだ。君以外の人間や、堕天使たちも見てきたからね。彼らの行動から察するに、人が人に自らの恋を告げるのは、単なる報告ではないようだ。まあ実際言葉の上で、単なる報告というのはあり得ないんだがな。お前が戦いの後走ってきて、倒したぞ、と言うことがあるだろう。私は見ていたのだから、倒したことなど知ってる。それでも敢えてそう言うのはその裏に、だから褒めてくれ、というような要求があるからだ。そうだろう?」
「あ、ああ」
「ちゃんと私の話を聞いているか? ……まあいい。つまり人の報告には、必ずと言っていいほど要求が付随するんだ。そして、恋を告げる報告の裏にはどんな要求があるかというと、それは、同じように自分に恋をしてくれという要求だ。愛してくれと言い換えても良い。愛と恋との違いに言及すると話は長くなるが……それは、今は置いておこう。重要なのは、イーノック。お前が私に恋を告げたのも、お前がそうするように、私におまえを愛せという要求からくるものなのか?」
 イーノックはルシフェルの話を聞いて、呆然とした表情を浮かべた。聞いていなかったわけではないのは、彼の顔色から分かる。先ほどまでは赤かった彼の顔は、今は白を通り越して青ざめていた。
「そんな、わ、私はただ」
「そして」
 ルシフェルは何かを言おうとしたイーノックの言葉を遮り、彼を赤い瞳でじっと見上げた。
「天使は恋をしない。してはいけない。なぜなら、天使は神に仕えるものだからだ。もし天使が恋をしたら、それは恋の相手を神より上に置くということ。現に何人かの堕天使は、人間に恋をしたために堕ちたよ。まあ、彼らは恋をしただけではなく、その相手のために神を裏切ったからだが……。さて、イーノック。お前は私に、お前のために堕ちることを望むのか?」
「違う!」
「違わないだろう。ならばなぜ、私に恋を告げたんだ」
 泣き出しそうな顔をするイーノックに、ルシフェルの心が痛んだ。天使は人を責めることに慣れていない。それが、好意を持った相手ならなおさらだ。そのあたりは人間と同じだろう。
 だが、ルシフェルは厳しい言葉を与える。それはルシフェルのためではなく、イーノックのためである。

 恋とは罪悪である。そんなことを言った作家を慕った別の作家は、こう言った。
 恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである。

 ルシフェルは力を失ったイーノックを、渾身の力で押し返した。そして、彼の下から抜け出すと立ち上がって手の届かない場所まで行く。飛んでしまった傘を拾い上げ、くるりと回しながらルシフェルは言った。
「忘れろ。……まあ、そんなことを言わなくても忘れて、というか、無かったことになってしまうのだが」
 すっと手を上げると、地面に座り込んだイーノックがはっと顔を上げ、「巻き戻さないでくれ!」と叫んだ。しかし、もう遅い。
 パチン。
 無慈悲に鳴り響いた音と共に、世界は渦を巻いた。
 ルシフェルは戻り行く景色を見ながら独りごちる。
「イーノック。恋とは一見美しいものだが、その実は酷く醜い。恋は肉欲に繋がり、清いお前を穢してしまう」
 自分が堕ちるかどうかという問題は、実は彼にとっては大きなものではない。ただイーノックを説得するのに一番効率的と判断したから使ったのみだ。ルシフェルが何より案じているのは、たぐいまれなる清い魂を持つ人の子が、他の人の子と変わらぬものになってしまうことである。
「私が原因でお前を穢すわけにはいかないよ、イーノック」
 神に愛される人間を、神に仕える天使が損なうことは、神への反逆にもなる。
 何より美しいと思う彼には、美しいままでいて欲しかった。
「私がお前に与えてやれる愛は、これだけだ」

 パチン、とルシフェルが指を鳴らす。巻戻っていたときが止まる。そして。
「ルシフェル、次のステージはどこだ?」