「蒼い太陽」 プロローグ
プロローグ
「今夜は満月だ」
男はガラス越しに見える、少しもやのかかった朧月に目をやりながら独り言をつぶやいた。この街は比較的自然が多い。車で二十分も走れば、小高い山へも行ける。それでも最近は開発が進んだせいもあって、市の中心部は多くのビルが立ち並ぶようになった。男はその、数ある高層ビルの一つである”大内建設”の総務部にいた。
誰もいなくなった、暗闇のオフィスの中心に、ぼんやりと小さな乳白色のデスクライトが灯っている。細身で長身、顔立ちも涼しげに整った男の机には、両脇に今にも倒れそうなほどのバインダーやファイルが山積みされていた。中には埃をかぶっていたり、色褪せてしまっているものもある。バインダーとファイルに囲まれた状態で男は、我に返ったようにガラス窓から視線をあるファイルに戻した。額とこめかみから粒のような汗が噴出している。時折、ポケットに忍ばせているハンカチで拭うのだが、すぐにまたじとり、と皮膚から現れる。汗を拭った左手首の腕時計を見ると、すでに夜の十時を少し過ぎたあたりだった。今日は久ぶりに家族水入らずで外食でも、と考えていたが帰ることができない。いや、帰ってはいけないのだ。あと少しなのだ。男は家族に申し訳ない気持ちを抱えつつも、ひたすらファイルのページをめくっていた。
やがて男が突然、「やった!見つけたぞ!」と、誰もいないフロアに響くほどの大声をあげて叫んだかと思うと、椅子から跳ね上がるように立ち上がった。その勢いで、机の上に置かれていたバインダー類が男の足元へドサッ、バサッバサッ、と重力に引かれて落ちていく。すると、最後のファイルが落ちたのと同時に重い、金属製のドアがゆっくりと開き、総務部のオフィスに別の男が入ってきた。男も一緒に残っていたのか、手には二人分の缶コーヒーが握られている。入ってきた男に気がつくと、叫んだ男は目を輝かせながら入ってきたばかりの男の方へ走っていく。
「主任!やりましたよ!ついに・・・ついに見つけたんですよ!」
男の興奮は収まらないのか、爛々とさせた眼を男に浴びせ、その顔を高揚させながら”主任”と呼んだ男の両肩をちぎれんばかりに揺さぶる。呼ばれた男が着ているスーツのの左胸のポケットには、”大内建設 総務部 主任 藤堂俊祐”とかれた名札がついていた。興奮した男ほど長身ではないものの、筋肉質な体つきで、彫りの深い目鼻立ちが印象的な男だ。はばたき市で生まれ育ち、二流大学を卒業後、東京にある大手ゼネコン、大内建設の総務部に入社した。そつなくこなす仕事ぶりや、対人関係の評価が功を奏し、入社七年目で新しく立ち上がった北海道支店へ主任として栄転になり、単身赴任中であった。藤堂は一瞬、何事かというような顔をしたがすぐにその言葉の意味を理解したのか、今度は藤堂も男の両肩を激しく掴んだ。
「本当か!?本当に見つけたのか!?」
藤堂の瞳孔は開き、男と同じように興奮した口調で聞き返した。男の名前は桜井健二。大内建設の総務部で副主任を任されている。藤堂と同じく、はばたき市出身で、藤堂より大学の三年後輩である。生真面目で曲がったことが許せない、実直を絵に描いたような男だが、その仕事ぶりは藤堂も一目置くほどであった。それを評価されたのか、藤堂の辞令と一緒に桜井も栄転となり、当時身重だった妻と共に北海道へ転勤してきていた。二人は総務部の中でも主に、従業員の給料や資材・備品調達の資金関係、工事などに関わる金銭面全般と融資、いわゆる”会社と金”に関わる仕事に就いていた。
「ええ・・・やっと”証拠”を掴みましたよ」
落ち着きを取り戻したのか、桜井は傍にあった椅子へ、糸が切れたマリオネットのように腰を下ろした。桜井はうつむいたまま顔を上げない。藤堂がその肩に目をやると少し、震えているように見えた。
「そうか・・・やっと見つけたんだな。・・・これで・・・俺たちは勝てるぞ」
ねぎらうように桜井の肩を優しく叩くと、藤堂は桜井のデスクへ向かった。山積みされていたファイルがなくなった真っ白なデスクの上に、一つの青いファイルが開かれている。藤堂がそのファイルの表紙をめくると赤いマジックで『社外秘』とだけ書かれてあった。日付は一九八八年三月とある。それを確認すると、もう一度開かれたページに戻った。そこには『三月十日 H氏へ五百万円』と書かれていて、その下にも毎月同じ頃に、同じ人物へ多額の金が渡っている内容が書き連なっていた。
「八月のところを見てください。・・・すごいですよ」
桜井が苦笑いとも皮肉ともとれる笑い方で藤堂にそう言うと、藤堂は無言で8月の欄を指でなぞった。すぅーっと伸びていた指の動きがある一点で止まるのを桜井がじっと見ている。
「3千万って・・・お前・・・」
見開いた目がその数字の意味を理解していた。何百万という金額も大きいが、桁違いの金額である。その桁違いの金額が意味するものが何なのかを二人はよく知っている。
「ええ。その次の月・・・九月は、○○市の第二都市建設の入札日ですよ。覚えてるでしょう?」
椅子に座っていたはずの桜井が、藤堂の隣で小さく呟いた。藤堂は信じられないといった面持ちで桜井の表情を薄明るい、デスクライトの下で確かめつつ、またファイルの方へ視線を移した。
「このファイルはいわゆる”裏帳簿”ですよ。俺たちに気づかれないように、宇佐美が書いてたんだと思います。・・・いや、実際書いてたのは宇佐美じゃない。おそらく元村でしょう。筆跡も元村によく似てるし、ほら。最後のページに”T.M”って書いてあります」
ゆっくりと、そして確実に自分が見つけたことを藤堂に伝える。その顔には明らかに自信があった。宇佐美とは二人の上司にあたる宇佐美繁という男で、課長職に就いている。恰幅のいい中年男性であるが、自分と会社の為なら手段を選ばぬ男でもあった。その宇佐美の飼い犬となっていたのが、元村武俊という、同じ総務部で働く社員だった。宇佐美とは対照的で、猫背の、細長い小さな体つきが印象的な男で、いつも宇佐美の後をゴマをすりながらついて歩いていた。
「あの入札、確かうちが落札したんだったよな?」
藤堂は思い出すように、空を仰ぎながら桜井にその出来事が間違いでないことを確認する。
「正確に言えば、あの入札”から”ですけどね。大規模な工事の入札がある度にうちが落札してます」
二人の視線が同時にファイルへと注がれる。確かにそこには、開発工事や大規模な土地整備の入札前に多額の資金が流れていた。明らかに不正流用である。そしてその流用先も二人は既知しているようだった。
「あとは・・・行動に移すだけだな」
重たい空気が漂う室内で、藤堂は振り絞るような声で言った。
その硬い意思を共有するかのように、桜井も小さく、それでいて力強く頷いた。
季節は流れ、十二月のクリスマスも近づいた日曜日。年明けには告発する予定だった桜井は、その日も休日だというのに、朝から自宅で書類の整理をしていた。北海道の冬は長い。連日降り積もる雪は屋根の雪下ろしを過酷にさせる。だが、健二はそれも悪くないと思っていた。
「あなた。ちょっといい?」
「今夜は満月だ」
男はガラス越しに見える、少しもやのかかった朧月に目をやりながら独り言をつぶやいた。この街は比較的自然が多い。車で二十分も走れば、小高い山へも行ける。それでも最近は開発が進んだせいもあって、市の中心部は多くのビルが立ち並ぶようになった。男はその、数ある高層ビルの一つである”大内建設”の総務部にいた。
誰もいなくなった、暗闇のオフィスの中心に、ぼんやりと小さな乳白色のデスクライトが灯っている。細身で長身、顔立ちも涼しげに整った男の机には、両脇に今にも倒れそうなほどのバインダーやファイルが山積みされていた。中には埃をかぶっていたり、色褪せてしまっているものもある。バインダーとファイルに囲まれた状態で男は、我に返ったようにガラス窓から視線をあるファイルに戻した。額とこめかみから粒のような汗が噴出している。時折、ポケットに忍ばせているハンカチで拭うのだが、すぐにまたじとり、と皮膚から現れる。汗を拭った左手首の腕時計を見ると、すでに夜の十時を少し過ぎたあたりだった。今日は久ぶりに家族水入らずで外食でも、と考えていたが帰ることができない。いや、帰ってはいけないのだ。あと少しなのだ。男は家族に申し訳ない気持ちを抱えつつも、ひたすらファイルのページをめくっていた。
やがて男が突然、「やった!見つけたぞ!」と、誰もいないフロアに響くほどの大声をあげて叫んだかと思うと、椅子から跳ね上がるように立ち上がった。その勢いで、机の上に置かれていたバインダー類が男の足元へドサッ、バサッバサッ、と重力に引かれて落ちていく。すると、最後のファイルが落ちたのと同時に重い、金属製のドアがゆっくりと開き、総務部のオフィスに別の男が入ってきた。男も一緒に残っていたのか、手には二人分の缶コーヒーが握られている。入ってきた男に気がつくと、叫んだ男は目を輝かせながら入ってきたばかりの男の方へ走っていく。
「主任!やりましたよ!ついに・・・ついに見つけたんですよ!」
男の興奮は収まらないのか、爛々とさせた眼を男に浴びせ、その顔を高揚させながら”主任”と呼んだ男の両肩をちぎれんばかりに揺さぶる。呼ばれた男が着ているスーツのの左胸のポケットには、”大内建設 総務部 主任 藤堂俊祐”とかれた名札がついていた。興奮した男ほど長身ではないものの、筋肉質な体つきで、彫りの深い目鼻立ちが印象的な男だ。はばたき市で生まれ育ち、二流大学を卒業後、東京にある大手ゼネコン、大内建設の総務部に入社した。そつなくこなす仕事ぶりや、対人関係の評価が功を奏し、入社七年目で新しく立ち上がった北海道支店へ主任として栄転になり、単身赴任中であった。藤堂は一瞬、何事かというような顔をしたがすぐにその言葉の意味を理解したのか、今度は藤堂も男の両肩を激しく掴んだ。
「本当か!?本当に見つけたのか!?」
藤堂の瞳孔は開き、男と同じように興奮した口調で聞き返した。男の名前は桜井健二。大内建設の総務部で副主任を任されている。藤堂と同じく、はばたき市出身で、藤堂より大学の三年後輩である。生真面目で曲がったことが許せない、実直を絵に描いたような男だが、その仕事ぶりは藤堂も一目置くほどであった。それを評価されたのか、藤堂の辞令と一緒に桜井も栄転となり、当時身重だった妻と共に北海道へ転勤してきていた。二人は総務部の中でも主に、従業員の給料や資材・備品調達の資金関係、工事などに関わる金銭面全般と融資、いわゆる”会社と金”に関わる仕事に就いていた。
「ええ・・・やっと”証拠”を掴みましたよ」
落ち着きを取り戻したのか、桜井は傍にあった椅子へ、糸が切れたマリオネットのように腰を下ろした。桜井はうつむいたまま顔を上げない。藤堂がその肩に目をやると少し、震えているように見えた。
「そうか・・・やっと見つけたんだな。・・・これで・・・俺たちは勝てるぞ」
ねぎらうように桜井の肩を優しく叩くと、藤堂は桜井のデスクへ向かった。山積みされていたファイルがなくなった真っ白なデスクの上に、一つの青いファイルが開かれている。藤堂がそのファイルの表紙をめくると赤いマジックで『社外秘』とだけ書かれてあった。日付は一九八八年三月とある。それを確認すると、もう一度開かれたページに戻った。そこには『三月十日 H氏へ五百万円』と書かれていて、その下にも毎月同じ頃に、同じ人物へ多額の金が渡っている内容が書き連なっていた。
「八月のところを見てください。・・・すごいですよ」
桜井が苦笑いとも皮肉ともとれる笑い方で藤堂にそう言うと、藤堂は無言で8月の欄を指でなぞった。すぅーっと伸びていた指の動きがある一点で止まるのを桜井がじっと見ている。
「3千万って・・・お前・・・」
見開いた目がその数字の意味を理解していた。何百万という金額も大きいが、桁違いの金額である。その桁違いの金額が意味するものが何なのかを二人はよく知っている。
「ええ。その次の月・・・九月は、○○市の第二都市建設の入札日ですよ。覚えてるでしょう?」
椅子に座っていたはずの桜井が、藤堂の隣で小さく呟いた。藤堂は信じられないといった面持ちで桜井の表情を薄明るい、デスクライトの下で確かめつつ、またファイルの方へ視線を移した。
「このファイルはいわゆる”裏帳簿”ですよ。俺たちに気づかれないように、宇佐美が書いてたんだと思います。・・・いや、実際書いてたのは宇佐美じゃない。おそらく元村でしょう。筆跡も元村によく似てるし、ほら。最後のページに”T.M”って書いてあります」
ゆっくりと、そして確実に自分が見つけたことを藤堂に伝える。その顔には明らかに自信があった。宇佐美とは二人の上司にあたる宇佐美繁という男で、課長職に就いている。恰幅のいい中年男性であるが、自分と会社の為なら手段を選ばぬ男でもあった。その宇佐美の飼い犬となっていたのが、元村武俊という、同じ総務部で働く社員だった。宇佐美とは対照的で、猫背の、細長い小さな体つきが印象的な男で、いつも宇佐美の後をゴマをすりながらついて歩いていた。
「あの入札、確かうちが落札したんだったよな?」
藤堂は思い出すように、空を仰ぎながら桜井にその出来事が間違いでないことを確認する。
「正確に言えば、あの入札”から”ですけどね。大規模な工事の入札がある度にうちが落札してます」
二人の視線が同時にファイルへと注がれる。確かにそこには、開発工事や大規模な土地整備の入札前に多額の資金が流れていた。明らかに不正流用である。そしてその流用先も二人は既知しているようだった。
「あとは・・・行動に移すだけだな」
重たい空気が漂う室内で、藤堂は振り絞るような声で言った。
その硬い意思を共有するかのように、桜井も小さく、それでいて力強く頷いた。
季節は流れ、十二月のクリスマスも近づいた日曜日。年明けには告発する予定だった桜井は、その日も休日だというのに、朝から自宅で書類の整理をしていた。北海道の冬は長い。連日降り積もる雪は屋根の雪下ろしを過酷にさせる。だが、健二はそれも悪くないと思っていた。
「あなた。ちょっといい?」
作品名:「蒼い太陽」 プロローグ 作家名:宝生あやめ