「蒼い太陽」 プロローグ
書斎とも呼べない小さな部屋で仕事をしていると、後ろのドアから声がした。健二がふと時計を見ると午後7時をとうに過ぎている。外はすでに暗闇に包まれ、遠くの方には海に浮かぶ漁船の明かりがぽつり、ぽつりと見えていた。
「どうした?」
健二が部屋のドアを開けると、そこには妻のあけみが不安な表情を浮かべて立っている。その顔を見ると健二は察したかのように言った。
「また琉夏の具合が悪くなったのか?」
「ええ・・・最近は何ともなかったんだけど・・・さっきから咳込みだして・・・熱もあるみたいだし・・・」
二人の間には琉夏という、六歳になる一人息子がいる。栄転が決まった時、彼も藤堂と同じように単身赴任をしようと思ったのだが、あけみの体が弱いことや、身重だったこともあって夫婦で引っ越すことを決めた。引っ越したその年に生まれたのが琉夏である。息子は生まれつき病弱で、喘息を患っているせいか、入退院を何度も繰り返していた。
「そうか。日曜日だけど今から病院に電話してみるよ」
健二はあけみを安心させるように言うと、そのままリビングにある電話からいつも診てもらっている大学病院の救急外来へ電話をした。
「あの、小児科でお世話になっている桜井と申しますが・・・はい・・・あ、いつもお世話になってる桜井琉夏の父ですが。つい先ほどあたりからまた息子の具合が悪くなりまして・・・ええ・・・そうです。はい、熱もあるみたいで・・・はい。わかりました、今から連れて行きます。はい・・・はい、それでは失礼します」
救急外来の担当とも顔なじみだと話が早い。健二はあまりいいことではないか、と思いつつあけみと琉夏を呼んだ。
あけみに手を引かれた琉夏はつらそうな咳を何度も繰り返していた。
「今から病院に行くからね。もう大丈夫よ」
咳をする度にヒューッ、ヒューッ、と喘息特有の息をする琉夏に微笑みながらあけみがかがんでそう言うと、咳をする合間を縫うようにしてパジャマ姿の琉夏が不安そうに言った。
「痛くするようなこと・・・ゴホッ、ゴホッ・・・しない?」
「大丈夫だよ。いつも診てくれてる津山先生だから。先生は痛くしたことないだろう?」
健二が琉夏の手を握って優しく言うと、琉夏は安心したように「うん」と笑顔で頷いた。
3人で車に乗り、片道三十分かかる病院へと急いだ。今日の雪はいつもより湿ってるな、健二はそんなことを思いながら、視界を前方からバックミラーへと移すと、あけみの膝の上で琉夏が寝息を立てている。
「ごめんね、仕事が忙しい時に・・・」
視線に気づいたのか、あけみが申し訳なさそうに健二へ言った。あけみは車の運転免許を持っていない。普段は買い物も幸運なことに、自宅の近くにスーパーがあるので自転車で出かけられるし、困ることはないのだが、こういった非常事態の時はいつも健二の運転が必要だった。
「いや、気にしなくていいよ。ちょうど息抜きしようと思ってたところだったし。それに、琉夏が大変な時なんだから。」
そうは言ってみたものの、実のところ仕事の内容はあけみに告げていない。それに数日前、どこから嗅ぎ付けたのか、元村が健二の元へやってきて強迫めいた台詞を告げたばかりだった。
『最近、藤堂とつるんで何か探ってるようだな。あんまり妙な真似するなよ?さもないと・・・』
脳裏に元村の声が反芻する。健二は頭を少し左右に振って、また前方へと視線をやった。その瞬間、目の前に何か大きなものが現れ、健二はとっさに急ハンドルを切った。それを避けようとして雪道を横滑りしたまま弧を描き、重心の保てなくなった車は一回転すると、白い煙をあげて激しくバウンドし、地面に横たわったまま動かなくなった。
作品名:「蒼い太陽」 プロローグ 作家名:宝生あやめ