「月が綺麗」で三編
3.逸鈍
角を曲がったところで、ふたりは同時に、
「あ」
と声を上げる。
月の美しい夜だった。見通しの良くなった一本道の向こう、雲ひとつない夜空に、艶やかな満月がぽっかりと浮かんでいる。誰が見ても思わず、ああ月が綺麗だね、と零してしまいそうな光景だった。そのことばがふたりの心にもちらりとよぎる。
ひとりは月、言いかけたところで思いとどまる。なにか変な意味を持ってしまっては具合が悪い、と思う。
もうひとりはそのことばを思い浮かべた瞬間に少しばかり気分が悪くなっている。ひとりがいかにもきまり悪げに口をつぐんだので不機嫌が増す。面倒なやつだと思う。
わたしはなんにも気付かなかった。そう決めて、もうひとりはさっさと歩を進める。静まりかえった住宅街の路地に、かつん、かつんと、澄んだ踵の音が反響する。その少しあとを、ひょろりと背の高いひとりが、狭い歩幅でてくてくとついていく。
こうして、あ、の意味を互いに問うこともなく、言葉のないふたりは夜道を歩いている。
口を閉じたひとりは、しかし、少し経って思い直す。こんなふうに遠慮する方が、よほど気にしすぎというものじゃないだろうか。言おうとした内容自体はなんでもないことなのに、ためらうとかえって変に意識しているみたいだ。こんな見事な月夜だ、何気なくそのことを口にしたって、別におかしくはないだろう。
ごほんごほん、と後ろから咳払いの音がする。あからさまな逡巡の気配を感じて、もうひとりは居たたまれない気持ちになる。どうしてこいつはこうなのだろう。暗くなったから送る、という申し出を、やはり無理にでも振り切っておくべきだったのだ。
歩くのなら、まるで知らない同士みたいに歩きたかった。そういうことが、何故だかいつもこいつとの間ではうまくいかなかった、と、もうひとりはそんなことを考えている。
ふたりはもうひとつ角を曲がる。
曲がった瞬間、ぱっと空気の色が変わったように感じる。あざやかな香りがふたりの眼前にひろがっている。
「金木犀…」
そろってことばが出た。
ひとりは思わず、あっと口を押さえる。
そういう反応をするから余計に恥ずかしいのだともうひとりは思う。
金木犀がどうしたと互いに問うこともなく、ふたりは歩く。夜の闇に紛れて、ふたりとも少しばかり赤面している。
先を歩くもうひとりの家に至る道は、ずっと金木犀の香りに満ちていた。不思議と花の姿は見えなかった。どこかの庭の生け垣の奥に、きっと群れて咲いているのだ。
家に着いた。門扉の鍵を開けて入って、振り返り、鍵を掛けながら、門の外のひとりの様子を門の中のもうひとりがうかがう。少し俯いて、立ち去るきっかけを探している。
月のことを言ってやろうかと思った。
「――」
「――なに?」
止した。もっと言うべきことばがあるか。
「ありがと」
門の外のひとりが少し驚いた顔をして、それから、答えるかわりに微笑んだ。
こうしてもうひとりは家の中へ入る。門の外のひょろ長い影も去って行っていつしか見えなくなる。
しんと冷えた夜の住宅街の路地に、月だけが残っている。美しい夜である。
まるで月の光が鮮やかな香りをはなっているような、いい夜である。