NAMELESS OPERA
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勇者の泉の洞窟を出たとき、日はもう大きく西に傾いていた。
洞窟の暗がりに慣れた目には陽光は眩しいほどだったが、それも束の間だった。
まだ明るい空を背景にして、輝く輪郭を残す雲は黒々と残照を覆い始め、広大な蒼穹の真反対側は、早くも夜の帳を下ろそうとしていた。
自分の足なら、すぐにでも追いつけるだろうとたかを括っていたのかもしれない。
迫り来る宵闇に、焦燥感が、頂点に達しようとしていた。
―――わが息子、カインをくれぐれも頼む
アレンの手を執らんばかりにして繰り返した、サマルトリア王の言葉が耳の底によみがえった。
サマルトリアの皇太子カイン。
父の命に背いた出立に際し、ただ一人見届けてもらった司教も、まず彼に会うことをアレンに勧めた。
生来病弱で、成人するまで成長することさえ危ぶまれていたことは、近隣諸国の誰もが周知の事実だった。
若くして相次いで不慮の死を遂げた国王夫妻に代わって、必然として王弟たる現国王の親政が執られ、それは民意を斟酌するまでもなく、王子の成人した暁には王冠は皇太子へと返されるはずであった。
この甥である皇太子と、叔父である現国王の、サマルトリアを二分する暗闘の芽を孕むかと思えたのも、今になってはただの杞憂に過ぎなかったと言える。
一国の正嗣たるアレンにとって、永年の友好国の継承問題は、身近な周囲で否応なく執り沙汰される話題であった。
いかにも、国政に深甚な影響が無い以上もとより介入すべき問題ではない。
ただ、アレンは折に触れ懐かしい記憶と共に、この話題が上るたびに、痛ましい気持ちで隣国の王子に思いを馳せるのだった。
共に、悪龍の手から単身で王女を救い出した勇者を共通の祖先とするとはいえ、この百年の間には、地理的風土的格差に加え、民族の混血によって差異は更に広がっていった。
ローレシアは、アレンに見られるように、勇者の持つ暗色の髪と彫りの深い大陸的風貌を、そのままに色濃く受け継いでいるといえた。
それより遥か北の地に建国されたサマルトリア王家は、、その土地の異民族との混血によって、かつての勇者の面影は既に残されていなかった。彼らにもたらされたのは、北方の輝くような色の髪であり、香気のような気品だった。
対面したのは、公式の場であったただ一度きり。
アレンより半年ほど遅れて迎えた、10歳の誕生祝賀の儀においてであった。
サマルトリアの国威を示す意味も含めた盛大な祝典であったが、立太子という確固たる事実が成立するに及んで、より多くの事柄が複雑に絡んで来るはずだった。尤も、それを、当時のアレンに理解できるはずも無かった。
辺境の荒涼たる土地で、大人に囲まれて幼少期を送ったアレンは、同盟国の未来の盟主として将来手を携えて行かなければならないという崇高な使命感に溢れながらも、それ以上に、同年代の友人ができるという期待に圧倒されていたのだった。
こっそり誘い出して未知の城内への冒険に付き合わせたが、それも顔色を変えた侍従らに見つかるまでのわずかな時間でしかない。
翌日、ローレシアに帰還するための出立の準備の合間に、せめてもう一度会えることを切実に求めたが、とうとう面会は許されなかった。前日の疲労の為高い熱を出し、そのまま床に臥せってしまったと近侍の者に聞かされた。
これまでも度々体調を崩しては、永く床に就くことを知らされていたはずだった―――。
ただ一度の出会いの追憶は、いつも耐えがたい自責の念に駆られて打ち切られる。
一人の供も無く、あたかも一介の旅人のようにサマルトリアを訪れたのは、もう数日とはいえ過去のことだった。
六年ぶりではあったが、その透き通る緑の印象だけは少しも薄らいでおらず、瀟洒な白亜の城は絵物語に描かれたような佇まいを見せていた。
父王の許しも得ないまま出奔するに等しい身の上から、真っ直ぐ国王に面会することも躊躇われた。
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