NAMELESS OPERA
うららかな陽光も、小さな少女の心にきざした不安な影を明るくすることはできなかった。
愛称のティアで呼ばれるティアリーズは、サマルトリアの王女であり、国王の目に入れても痛くない一人娘であった。
今では片時も傍から離れようとせず、付ききりになった乳母が、懸命に気を逸らせようとするが、愛くるしい王女はすぐに沈み込んでしまう。
乳母とは言え、ネーナはまだ三十にもならない若さに見える女官であった。国王から王女付きを任命されることは、とりもなおさず、彼女一人で護衛隊に匹敵するほどの技量と魔力を兼ね備えることを意味していた。
今は、王女のたしなみとして手がける刺繍も、その乳母から手ほどきされながら、ティアはしかつめらしい表情のままだった。
陽光を採りこむため、部屋は明るい庭に面して大きく開け放たれている。ささやかな王女の花園は、高い生垣によって外から安全に遮られ、色とりどりの春の花が咲き乱れていた。
一瞬、矢のように鳥の影が掠めた。
ただ一人、王女だけがそれに気付いたように立ちあがり、大きく左右に開かれたテラスに駆け寄った。
「王女様?」
ネーナが動転したようにティア姫を追いかけ、その場で固まったようになった。
ティアが、中庭に立つ見知らぬ男に問いかける。
「誰?」
不思議そうなティアの問いには、微塵の警戒もなく、訪れることへの心躍るような期待が込められていた。
旅装束の、若い、まだ少年と言っていいほどだった。
ただ立っているだけだが、そのさりげない姿勢には一分の隙もなく、それは彼が剣士として相当な遣い手であることを物語っていた。しかもその姿から醸し出されるのは、けして荒んだ流浪者の血腥さなどではなく、清浄な気品だった。
警護を勤めるネーナは、咄嗟に侵入者を排除しようとして立ちはだかり、相手を一目見るなり愕然と我が目を疑った。
その侵入者はネーナの挙動にも泰然としたまま、王女から十分距離を取って、拝跪の礼をとった。
自分の剣が届くより先に、ネーナの魔法が有利であるほどの距離だった。
「かような振る舞いに及ぶ無礼を何卒お許し下さい。姫様にはご機嫌麗しゅう―――」
「お兄ちゃんのお友達?」
ティアの表情が喜びに輝く。
ムーンブルクの悲劇が起こって以来、領内は魔力による結界が張られ魔物の侵入を阻み、居城に至っては特別な例外を除き、外部からのいかなる不審者も許さない仕組みになっていた。
その結界を無効にする例外こそが、他ならぬルビスの加護であり、同義に等しいロトの血脈であった。
「アレン殿下……!?」
ここに現われた事情とこの手段の理由に当惑するネーナに顧みる余裕もなく、アレンはティアに促されるままにテラスに跳び込んだ。
ロト三国の姻戚関係は深く強いものであり、サマルトリアの王女も産まれた時から隣国ローレシアの王子とは婚約者として縁づけられていた。
王族であれば、その伴侶を私情や偶然に任せて得ることなど許されることではない。そこには甘い幻想の紛れる余地など微塵もない、厳然と組み込まれた政略があるばかりだった。
「お兄ちゃんは、もう居ないの」
「居ないって?」
「もう行ってしまったの―――!」
そこでティアは子供心に張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、アレンにしがみついて泣き声をあげる。
腰ほどの高さしかない少女の髪を撫でながら、字義通りに推し量りかねて、アレンがネーナを振り返った。
当惑しながらも居住まいを正し、ネーナが口を開く。
「カイン殿下は、七日前にお立ちになられました。国王陛下が強くお諌めあそばされたのですが、殿下は一歩もお下がりにならず……」
「七日前!」
自分が城を出たのと同じ日。
「―――慣例通り、【勇者の泉】にて洗礼をお済ませになれば、殿下もサマルトリアの誉ある騎士。陛下であってもその教義に背かせることはかないません」
然も有りなん。
守るべきが地上であり、故国であるなら、諸国が呼応し合い、軍備を整え、一気に迎撃を掛ける。
だが、これから繰り広げられるのは、領地の覇権をめぐるものではない。
ムーンブルクの惨劇すら、ロトの血脈を殲滅せんが為の戦端に過ぎないという―――。
ならば、その血を最も色濃く受け継ぐ者こそ先陣を切って本拠地に討って出るべきではないか。
恐らくカインもそう考え、愚行に等しいこの決断を下したに違いない。
アレンは、自分をティアの目線に合わせるように床に膝をついた。
しゃくりあげる彼女の濡れたブルーの目を覗きこむ。
「姫、何故私を兄君の知己と思し召されたのです?」
ティアはあどけない手つきながら涙を押さえ、小さな貴婦人として居ずまいを正した。
「お兄ちゃんが―――仰ったの」
ティアはもう一度しゃくりあげたがもう涙は見せず、正確に兄の記憶を告げることに真剣になった。
「―――きっとこのテラスから、アレン様がいらっしゃるだろうと。
かつてこのお城にお見えになられた時、秘密の抜け道にご案内したから、城内に見咎められず侵入されるなら、必ずこの経路を辿られるはず。
ここに見えられたということは、公にできぬ事情が有るからこそ。
我が朋友ゆえ、丁重にお迎えし、くれぐれもお力添えを惜しまぬようにと」
全身を耳にして聞いていたアレンは、その言葉に込められた、自分への信頼の大きさに息を呑んだ。
ティアは兄の言葉と共に、それを告げられた時の永訣を思わせる響きを思い出したのか、再び身を震わせて大粒の涙を零した。
今度の声を立てない静かな泣き方に、ティアの本当の悲嘆が表れていた。
アレンは、泣いた所為で熱くなったティアの小さな手を執って立ち上がった。
未来の伴侶に対する強烈な感情が無くとも、温かい家族になることはけして不可能ではない。
この小さな淑女に、アレンは父ならばきっと母にこうするだろうと思える誠実さで接したかった。
見知らぬ他人同士であっても、ただ王族としての義務を果たす以上に、年月をかけて情愛を培うこともやがてできるだろう。自分の両親がそうであったように。
「姫、ご心配には及びません。私が殿下にご同行いたしますゆえ」
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