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NAMELESS OPERA

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 サマルトリアとの縁組を誰よりも喜んだのは、余人ならぬムーンブルク国王であった。

 遠国ローレシアやラダトームより地理的にはるかに近く、何より唯一魔法に対する造詣が深かったことに、魔道士たる王女の、婚家における立場を望ましいものとし、関係を円滑に保てるという希望があった。

 サマルトリアの莫大な財産と、ムーンブルクの広大な領土の結びつきは、近隣諸国にとって脅威となるものであったが、サマルトリアとローレシアのさらなる婚姻によって、ロト三国は御伽話のごとく平和のうちに確固たる基盤を築いていけるはずだった。

 ムーンブルク国王はあたかも新しい息子ができたかのように、手ずから温かい慈しみ溢れた親書をサマルトリアの皇太子に何度も送ってよこしていた。
 そしてその最後の手紙は、落城の後サマルトリアに届けられた。

 手紙の主が、かつてその白亜の居城を構えていたムーンブルクは、今や一面の灰と毒素に蝕まれた焦土でしかなかった。
 滅びを強要され、一木一草とて無い虚妄の荒野と化したその領土は、今や周辺国家の切り取り放題と成り果てていた。

 この地上から、なんという大きなあたたかいものが失われたことだろう。
 それは、カインにとって、心が極限まで冷え切るような、痛烈な喪失感だった。

 さらに、それは同時に、領土的野心のあったサマルトリアにとって、ムーンブルクとの連合の夢の潰えは、その鎹となるカインの利用価値も失われたことを意味してもいた。

 莫大な財産もその正当な相続者たるカインさえいなければ、現国王が受け継ぐものとなり、ひいては王女を通し将来はローレシアの保有となるものでもあった。


 窓越しに見える難民の列は絶えることなく、応対し検閲するサマルトリア兵の疲労もその頂点に達しようとしている。

 これほど、衝動とも思える強さでムーンブルクを目指しているのでなければ、このままサマルトリアで被災者の救護に当たりたいという思いに、激しく胸を掴まれるようだった。

 食料は?宿舎は?収容施設は?時間を掛け過ぎることに対して、よい結果など得られはしないのだ。

 程なく、サマルトリア兵の交代がなされ、また行列は動き出してゆく。

 曲がりなりにも、能率優先の国王の命令は機能しているらしい。

 臍を噛む思いで、カインはその様子を見つめた。

 ここを跳び出して、あの喧騒の中に躍り出たいという思いが燃え上がるようだった。
 私はサマルトリアの皇太子、カインだ。我が国の持ちうる全てを使い果たしても、最後の一人まで助けよ!


 行使できない力―――なんという虚しい権力だろう。


 その時、群集の中から突如として激しい怒号が上がり、一部で乱闘が巻き起こる。

 疲労と不安と苛立ちが些細な諍いに火をつけ、止めようとした兵士がそれに巻き込まれるのを見た。恐慌に陥った女性等の悲鳴が続き、火が付いたような子供の泣き声があがる。

 反射的にカインは立ち上がった。

 だが、両足が言うことを聞かなかった。
 ここまで来て、体力も精神力もその限界を感じていた。足を引き摺ってようやくここまで辿り着き、もうこれ以上一歩も進めなくなっていたことを失念していた。

 体を支えようとした手がグラスを弾き飛ばし、派手な音と共に床で砕け散る。

 肩で息をして上体を支えるカインの隣で、男が立ち上がった。

「いいから、あんたはここに居な。俺がちょっくら行って来てやっからよ―――」

 その酒場に居た全員が、自分の手付かずのジョッキやグラスもそのままに、男と一緒になって酒場を飛び出した。

 彼らが窓の外で、行列に向かって駆け出しながら大声で何か叫ぶのを、テーブルに腕を付いて顔を伏せたまま、カインは聞いた。


「やめろ!皆、やっと助かったんだ!馬鹿なことで怪我人を増やすんじゃない!」


 見なくても、騒ぎは徐々にだが終息に向かっていくのがわかる。


 それに引き替え、自分の何という卑小さ。

 何という自分の醜態だろう。
 ムーンブルク大陸へ渡るどころか、己の領地からすら出られず、剰え、我が身の自由さえままならないとは。

 取り巻く周囲の世界全てが、自分の死を望んでいるにもかかわらず、それでも生きることに執着した理由がこの旅立ちだったというのに。

 ローラの門は危険に備え、入国は許しても単身の出国は許さなかった。

 すでに夕闇は迫っており、こうして身動きも取れぬまま、もし連れ戻されることになれば、もう二度とは旅立てないかもしれないことは予測がつく。





「カイン、やっと見つけた!」




 カインはありえないという思いで、弾けるように顔を起こした。

 酒場の入り口で、逆光を背景にした人影が発した言葉だった。

 歩を進めるにつれ、その姿は光に当たるように浮かび上がる。

 現れたのは、誰の目にも、一度見たら忘れられないほどの強い印象を持った若者だった。漆黒の髪と碧洋の瞳、そしてローレシアの青。

 カインは風防を顔から持ち上げると、椅子を引いて立ち上がろうとした。
 歯を食いしばってでも、ここに至って、惨めな姿を晒すことなどあってはならなかった。

 彼は流れるような動作で優雅に立ち上がり、笑顔で右手を差し出した。

「サマルトリアのカインです。貴方はローレシアの」

「無事でよかった!」

 カインの言葉が終わるのを待たず、アレンはその手を握り返した。

「やっと追いつけたよ。君とは六年ぶりか。また会えて良かった!」

 再会の高揚に息を弾ませ、アレンは右手を握ったままローレシア流に相手を抱擁する。

 抱きすくめられてカインの表情は一瞬驚愕に動かされたが、アレンはすぐに相手を解放した。

「憶えてたのか?」

 その戸惑うような曖昧な表情は、非の打ち所のない最初の完璧な微笑より、アレンには人間的な好ましいものに映った。

「当たり前じゃないか!」

 そこで急に彼はがっかりした表情になった。

「ごめん。すぐに気付いてくれたから、君も憶えてくれてるとばかり、……思い上がってた。失礼して申し訳ない」

 カインは内心吹き出しそうになった。
 見違えるように背が伸びても、深い所は何も変わってないままだ。

「別に、忘れてたわけじゃない」

 その言葉に、アレンは再び歓喜に溢れた満面の笑顔になった。

 だが、右手は固く拳を握り締めた。痺れるような感覚がまだ残っている。

「君も長旅で疲れてたろう。今日はもう休んで、明日に備えよう」

 アレンは努めてさりげなく、自分を叩きつけてくる感覚を無視しようとした。
 自分の中の何かが、激しく警鐘を鳴らしている。
 かつてこれほどまで、何かに心を揺さぶられたことはなかった。

 二度目の出立のときのローレシア王の言葉が、アレンの耳に甦った。

「アレンよ、そなただけは、よき友として彼と共に行くがよい。恐らく、彼の味方と呼べるのは、そなた、ただ一人だけであろうに」





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