NAMELESS OPERA
-3-
―――いい子だ、カイン。
この男の声はいつも優しい。
―――そうやってはじめからいい子にしていれば、怖がる必要はない。
目は閉じることができても、耳を塞ぐことはできない。
腕を掴まれ、肩は押さえられ、足は……
相手の挙動に抵抗すると、髪を掴まれて引き据えられた。
腕は捕らえられたまま、大人の力で引っ張られ、体はたやすく反転する。
シーツに突っ伏した自分の顔の前に、自分の右手があった。
ふいに、この男以外に、自分の手をとった少年がいたことを思い出した。
あの子は?
そういえば、あの子はどうしたろう?
どうしていいかわからず、立ちすくんでいた自分の、この手をとって走り出した、あの男の子は?
あの子の手は少しも嫌ではなかった。
またあの子に会いたい。
もし、いつかもう一度会えることができたら、また友達のように遊んでくれるだろうか。
そして今度は、自分から手を伸ばして誘ってみよう。
そうすれば―――
―――さあ、カイン。どうして欲しいか、言ってごらん。
男は優しく耳元で語りかける。
―――言葉にしなければ、いつまでも苦しいだけだぞ。
わかっている。言わなければ、この苦しみに終わりはない。
今はただ早く終わって欲しい。
本当の終わりなら、もっと後に来る。
そう、いつか……。
だが、言わなければ、その本当の終わりが早くなる。
だから、自分は、その言葉を口にする。
―――どうか、陛下の、お情けをください……。
―――よろしい。では、自分で足を開きなさい。そうだ。
もう、自分の声も、男の声も聞きたくない。
聞きたい声は、これとは違う。
あの子の声だけが聞きたい―――
ひときわ高く、子供の大きな泣き声が上がった。
幻聴ではなく、込み合った人ごみの中から聞こえてくるものだった。
窓際のテーブルに腰を下ろすと、その酒場からは街の入り口の喧騒がよく見える。
注文して運ばれてきたぬるいエールは、ただの色付きの水のようだった。
増え続ける難民の救護のため、物資が不足し始めているのは明らかだった。
跳ね上がる価格を国令で厳しく押さえさせているため、生活必需品はともかく、酒や嗜好品は粗悪になっていくのを避けられなかった。
カインはテーブルの上に置いた、自分の右手を見つめた。
今度は自分から。
ずっとそう思っていたが、当の本人には会えなかった。
如何に目的があったからできたとはいえ、大陸の長径の半分という距離を、自分の力だけで踏破したのは、自身にとってでさえ驚異的だった。
サマルトリアで待ってさえいれば、彼と行き違いにならずに済んだはずだった。
国王の目を逃れ、人目を避け、二度と再び戻らないつもりで住み慣れた城を出ることにならなければ。
ムーンブルクからの使者を待つまでもなく、落城の様子は大陸を越えてすら手に取れるようだった。
南の空は昼夜を問わず、七日七晩燃え続けていた。
国王は、カインの出立を絶対に許さなかった。
ムーンブルクを滅ぼしたものを討伐するなど、とても正気の沙汰ではない。
本人の体力を考えてもまったく無謀で、最初から無意味ではないか。
それは正論だった。
それでも意志を翻さなかったカインは、監禁状態にまで置かれ、それでも国王は飽き足らなかった。
思いとどまらせるために、手段は選ばれず、それは回復魔法を会得していなければ、自力で動くことすらできないほどだった。
今でこそ安定した評価を得られてはいるが、かつて幼いカインの身に何かあるたび、国内外で真っ先に宮中での虐待が疑われた。
ただでさえ、病弱で、日常的に床に伏せることが多い自分は、ただそこにいるというだけで、国王にとって大変な重荷となることだろう。
どれほど大切に扱ったところで、付き纏ってくる疑惑から逃れることはできない。
では、どちらでも同じことではないか。
だから、旅立ちを反対する理由がわからなかった。
自分がいなくなることは、誰にとっても好都合のはずではなかったか―――?
「よう、巡礼さん。一人かい?」
傍らの空いた椅子がきしむほど乱暴に腰を下ろし、安酒臭い息で話しかけて来る者がいた。
荒くれのような風体の大男で、言葉に異国風の訛りがある。難民に紛れて流入する中に居る類に違いない。
男は、カインを頭の先から爪先まで眺めると、もう一度顔に焦点を合わせた。
ヘッドバンドと風防で顔の半分は隠されてるとはいえ、通った鼻筋と形のいい唇の造形は全体の美を惜しげもなく表している。細い顎から、すんなりした首筋にかけての輪郭は、高価なカメオを思わせ、蠱惑的なまでに端麗だった。
埃じみた旅装ですら、高雅な印象を少しも損なっていなかった。
神聖国家であるサマルトリアを訪れる巡礼は多い。
相手がまだ少年であることも驚くにはあたらなかった。
だが、その相手が風防越しに自分を一瞥しただけで、また関心を難民に向けたことは拍子抜けだった。
怯えや緊張が見られれば、まだからかい甲斐もあったが、見るからに自分の体格の半分しかないような華奢な肩には、ほんのわずかの緊張すら見えなかった。
「ムーンブルクからか?」
涼しげな横顔から発せられた言葉が、自分への問いと気付くまで、数瞬かかった。
「あ?ああ、そうともよ。ローラの門が閉じられでもしちまったらお終いだって、どいつもこいつも気が変になったみたいに我先に押しかけてるぜ」
「ローラの門を閉ざさせたりなどさせん!」
声は低かったが、その意味に打たれたように男は口をつぐんで相手を見つめた。
宗教的使命感からの言葉とも取れる。では、この畏敬の気持ちはいったいどこから来るのだろうか。
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