或る若者の憂鬱
センパイ日本語も充分じゃないのに海外留学なんて本当に大丈夫なんすかコトバとか文化とか違うんすよ、と悪びれる様子もなく言ってくる中等部三年ろ組の次屋三之助をいつもならば真っ先におまえは先輩に向かって何という口のききかただと外見に似合わぬ時代錯誤の体育会系気質で叱責するはずの奴が微動だにもせずまるりとスルーしていたのでしかたなくその脳天に片手チョップでじきじきにツッコミをいれた。
「三之助おまえは先輩に向かって何という口のききかただ」
「いってえっ」
軽くはたいただけなのに三学年下の後輩は大袈裟に頭のてっぺんをおさえてうずくまった。
それでもまだ、三之助よりひとつ年上で自分よりはふたつ年下の平滝夜叉丸はノーリアクションで突っ立っている。
「……どーしたんスか、黙りこくって」
後輩に仰ぎ見られひらひら手を振られてやっと、白昼夢からさめたように滝夜叉丸が反応した。
「いや……その、なんだ、驚いてしまって」
「なんだ、お前も心配してくれてるのか?」
「心配などしていませんよ。あなた昔アメリカの従姉妹の方のところにホームステイされてたこともあるでしょう」
「えっそうなんすか七松先輩。そんなグローバルな経歴あったんだ」
「あったけど、よく知ってるな滝夜叉丸」
「自分でおっしゃったじゃないですか」
よく覚えているものだ。こっちは言ったということ自体を忘れているのに。
「それにしても急な話ッスよねえーなんでこの時期に?先輩もう進路とか決まってたんじゃなかったっけ」
「ん。まあ、せっかく受験勉強しなくていい身分だし、ちょっとぶらっと放浪してみようと思ってな」
「で、どこ行くんすか。アメリカ?」
「二ヶ月はアメリカ。あと一ヶ月はブラジルかイタリアのどっちかだな」
「へえ。さっすが貿易商の放蕩息子さんは違いますねえ。お土産買ってきてくださいよ」
邪気無くそんなことを言ってくる三之助を軽く小突く。その隣でいつもならうっとうしいほどぐだぐだ喋るはずの滝夜叉丸は、なぜか異様におとなしい。どうしたんだこいつ。腹でも減ってるのか。
同じことを思ったのか、三之助が滝夜叉丸を肘でつついた。
「なに黙ってんすか滝夜叉丸センパイ。あんたも七松先輩に言うことあるんじゃないんすか」
「うん?なんだ滝夜叉丸。土産のことか?気にしなくていいぞ」
「ってそれは私が言うことでしょ……あ、いえ、すみません呆けてました」
「もしかして、私がいなくなるのがさみしいのか?急に決めたからなあ。悪かったな」
からかい混じりにそう聞いてみると、予想していたよりもだいぶん味気ない返答が返ってきた。
「いえ。たしかに急な話で、今年度の残り三カ月の委員会活動について少々考えてしまっていただけです。元々雑務はほとんど私がやってましたしね、あとのことはこの優秀な滝夜叉丸に全て任せて、先輩は心おきなく行ってらっしゃいませ」
ご希望が叶って何よりです、お体にはお気をつけて。と、かたちだけは慇懃に滝夜叉丸が言い捨てた。
にこりと笑って見せた顔には微塵の動揺も見られない。もっと大きなリアクションがあるかと思ったのに、つまらない。つまらないやつだ。
「ひとがいないからってサボるんじゃないぞ」
「先輩こそ、羽根伸ばしすぎて変な性病とかもらって帰らんでくださいね」
ようやく滝夜叉丸が反応して三之助の頭をはたいた。
季節は冬。学校法人大川学園の高等部グラウンドで、後輩たちと交わした会話は、そんなものだった。
そして今。
イタリア留学生のメッカ、フィレンツェ。はじめての夜、アパルトメントの部屋の入口で、目の前に広がる光景に対して自分はただ呆然と立ちすくんでいた。
目の前に広がる光景は、朝、自分が部屋を出た時と異なるものだった。
古くもないが新しくもないこの部屋にあるのは、テーブルひとつとソファー、そして、以前に滞在していた日本からの留学生が置きざりにしていったという漆室町箪笥。
その上では、窓越しに異国の月のひかりを受けて、円い刃物がちらちらとにぶい光を放っている。
それらは朝の時点と寸分変わらずそこに居続けていた。
しかし、部屋の様子は決定的に違っていた。モノがひとつ増えていたのだ。
暗い街灯と明るい月の光に照らされた薄暗い部屋の中、濃紫色の忍装束に身を包んだ少年が、自分に負けず劣らず呆然とした表情でこちらに視線を固定したまま、さかさまになって天井近くに浮かんでいる。
自分へ視線を固定したまま、目と口と鼻の穴をめいっぱい広げて固まっているその顔は。
「滝夜叉丸……?」
まぎれもなく、日本に居るはずの、自分のよく知る後輩のものだった。
◎ ◎
夜の牢屋はまったく暗いもので、その闇は忍というにはやや主張の強い紫色さえもすっぽりと塗り込めてしまう。
囚われの身には暇つぶしの手段があまり無い。忍術学園四年い組の平滝夜叉丸は、座禅の姿勢で思考をあそばせていた。
滝夜叉丸の所属する体育委員会の委員長である七松小平太が一ヶ月前に任された忍務は、護衛。籠城中のベニテングダケ城の姫を敵対するセンボンサイギョウガサ城へ講和のための人質として送り届けるというものだった。
下級生の耳には入れない類の忍務である。
しかし出立から二月程経ったある日、体育委員所属の一年生である皆本金吾が思いつめた表情で滝夜叉丸に言ってきた。
――いぶ鬼から聞いたんです。七松先輩が、ドクタケに捕まってるって。
まさか、と一笑に付そうとした。
だが、言葉が続けられるにつれて滝夜叉丸の特徴的な眉の根は次第に寄りそっていった。
――ふぶ鬼が風鬼に聞いてみたら教えてもらえなかったけど否定もされなかったっていうし
――キャプテン達魔鬼は籠城中のベニテングダケ城とかいうところに極秘任務で出張中だっていうし
――魔界之小路先生に聞いたら、ベニテングダケは今、センボンサイギョウガサ城と敵対してるんだけど
――ベニテングでは、姫を差し出して降伏するつもりの保守派と反対勢力の強行派で内輪揉めが起きてるっていうし
――滝夜叉丸先輩、七松先輩の忍務ってその関係じゃないんですか。本当に先輩は大丈夫なんでしょうか。
一年生の情報収集力に、滝夜叉丸は内心で舌を巻いた。
そして急速に胸に不安が広がってゆくのを感じた。
「それらが全て本当であったとしても。六年生にも教師達にも目立った動きはないし、学園長もなにもおっしゃらない。何より、七松先輩が捕まりっぱなしだなんてありえない.。我らが体育委員の委員長だぞ。なに、近々、脱力するような理由をさげてピンピンして帰ってくるさ」
そう説明して、後輩と自分を安心させ、その足で学園長の元へ向かった。
「七松先輩がドクタケに囚われているという噂を耳にしましたが」
「ドクタケに?あの七松小平太が?まさか」
すわ偽情報か、と滝夜叉丸は安心しかけた。
が、甘かった。
「ううむ……だが、この状況では、その可能性も捨てきれんな……実はついさっき、小平太が向かっているセンボンサイギョウガサ城からも、姫がまだ到着しないと密使が来たんじゃ」
「なんと……」
「三之助おまえは先輩に向かって何という口のききかただ」
「いってえっ」
軽くはたいただけなのに三学年下の後輩は大袈裟に頭のてっぺんをおさえてうずくまった。
それでもまだ、三之助よりひとつ年上で自分よりはふたつ年下の平滝夜叉丸はノーリアクションで突っ立っている。
「……どーしたんスか、黙りこくって」
後輩に仰ぎ見られひらひら手を振られてやっと、白昼夢からさめたように滝夜叉丸が反応した。
「いや……その、なんだ、驚いてしまって」
「なんだ、お前も心配してくれてるのか?」
「心配などしていませんよ。あなた昔アメリカの従姉妹の方のところにホームステイされてたこともあるでしょう」
「えっそうなんすか七松先輩。そんなグローバルな経歴あったんだ」
「あったけど、よく知ってるな滝夜叉丸」
「自分でおっしゃったじゃないですか」
よく覚えているものだ。こっちは言ったということ自体を忘れているのに。
「それにしても急な話ッスよねえーなんでこの時期に?先輩もう進路とか決まってたんじゃなかったっけ」
「ん。まあ、せっかく受験勉強しなくていい身分だし、ちょっとぶらっと放浪してみようと思ってな」
「で、どこ行くんすか。アメリカ?」
「二ヶ月はアメリカ。あと一ヶ月はブラジルかイタリアのどっちかだな」
「へえ。さっすが貿易商の放蕩息子さんは違いますねえ。お土産買ってきてくださいよ」
邪気無くそんなことを言ってくる三之助を軽く小突く。その隣でいつもならうっとうしいほどぐだぐだ喋るはずの滝夜叉丸は、なぜか異様におとなしい。どうしたんだこいつ。腹でも減ってるのか。
同じことを思ったのか、三之助が滝夜叉丸を肘でつついた。
「なに黙ってんすか滝夜叉丸センパイ。あんたも七松先輩に言うことあるんじゃないんすか」
「うん?なんだ滝夜叉丸。土産のことか?気にしなくていいぞ」
「ってそれは私が言うことでしょ……あ、いえ、すみません呆けてました」
「もしかして、私がいなくなるのがさみしいのか?急に決めたからなあ。悪かったな」
からかい混じりにそう聞いてみると、予想していたよりもだいぶん味気ない返答が返ってきた。
「いえ。たしかに急な話で、今年度の残り三カ月の委員会活動について少々考えてしまっていただけです。元々雑務はほとんど私がやってましたしね、あとのことはこの優秀な滝夜叉丸に全て任せて、先輩は心おきなく行ってらっしゃいませ」
ご希望が叶って何よりです、お体にはお気をつけて。と、かたちだけは慇懃に滝夜叉丸が言い捨てた。
にこりと笑って見せた顔には微塵の動揺も見られない。もっと大きなリアクションがあるかと思ったのに、つまらない。つまらないやつだ。
「ひとがいないからってサボるんじゃないぞ」
「先輩こそ、羽根伸ばしすぎて変な性病とかもらって帰らんでくださいね」
ようやく滝夜叉丸が反応して三之助の頭をはたいた。
季節は冬。学校法人大川学園の高等部グラウンドで、後輩たちと交わした会話は、そんなものだった。
そして今。
イタリア留学生のメッカ、フィレンツェ。はじめての夜、アパルトメントの部屋の入口で、目の前に広がる光景に対して自分はただ呆然と立ちすくんでいた。
目の前に広がる光景は、朝、自分が部屋を出た時と異なるものだった。
古くもないが新しくもないこの部屋にあるのは、テーブルひとつとソファー、そして、以前に滞在していた日本からの留学生が置きざりにしていったという漆室町箪笥。
その上では、窓越しに異国の月のひかりを受けて、円い刃物がちらちらとにぶい光を放っている。
それらは朝の時点と寸分変わらずそこに居続けていた。
しかし、部屋の様子は決定的に違っていた。モノがひとつ増えていたのだ。
暗い街灯と明るい月の光に照らされた薄暗い部屋の中、濃紫色の忍装束に身を包んだ少年が、自分に負けず劣らず呆然とした表情でこちらに視線を固定したまま、さかさまになって天井近くに浮かんでいる。
自分へ視線を固定したまま、目と口と鼻の穴をめいっぱい広げて固まっているその顔は。
「滝夜叉丸……?」
まぎれもなく、日本に居るはずの、自分のよく知る後輩のものだった。
◎ ◎
夜の牢屋はまったく暗いもので、その闇は忍というにはやや主張の強い紫色さえもすっぽりと塗り込めてしまう。
囚われの身には暇つぶしの手段があまり無い。忍術学園四年い組の平滝夜叉丸は、座禅の姿勢で思考をあそばせていた。
滝夜叉丸の所属する体育委員会の委員長である七松小平太が一ヶ月前に任された忍務は、護衛。籠城中のベニテングダケ城の姫を敵対するセンボンサイギョウガサ城へ講和のための人質として送り届けるというものだった。
下級生の耳には入れない類の忍務である。
しかし出立から二月程経ったある日、体育委員所属の一年生である皆本金吾が思いつめた表情で滝夜叉丸に言ってきた。
――いぶ鬼から聞いたんです。七松先輩が、ドクタケに捕まってるって。
まさか、と一笑に付そうとした。
だが、言葉が続けられるにつれて滝夜叉丸の特徴的な眉の根は次第に寄りそっていった。
――ふぶ鬼が風鬼に聞いてみたら教えてもらえなかったけど否定もされなかったっていうし
――キャプテン達魔鬼は籠城中のベニテングダケ城とかいうところに極秘任務で出張中だっていうし
――魔界之小路先生に聞いたら、ベニテングダケは今、センボンサイギョウガサ城と敵対してるんだけど
――ベニテングでは、姫を差し出して降伏するつもりの保守派と反対勢力の強行派で内輪揉めが起きてるっていうし
――滝夜叉丸先輩、七松先輩の忍務ってその関係じゃないんですか。本当に先輩は大丈夫なんでしょうか。
一年生の情報収集力に、滝夜叉丸は内心で舌を巻いた。
そして急速に胸に不安が広がってゆくのを感じた。
「それらが全て本当であったとしても。六年生にも教師達にも目立った動きはないし、学園長もなにもおっしゃらない。何より、七松先輩が捕まりっぱなしだなんてありえない.。我らが体育委員の委員長だぞ。なに、近々、脱力するような理由をさげてピンピンして帰ってくるさ」
そう説明して、後輩と自分を安心させ、その足で学園長の元へ向かった。
「七松先輩がドクタケに囚われているという噂を耳にしましたが」
「ドクタケに?あの七松小平太が?まさか」
すわ偽情報か、と滝夜叉丸は安心しかけた。
が、甘かった。
「ううむ……だが、この状況では、その可能性も捨てきれんな……実はついさっき、小平太が向かっているセンボンサイギョウガサ城からも、姫がまだ到着しないと密使が来たんじゃ」
「なんと……」