Call my name サンプル
金・土はこのバイトのために用事も他のバイトもいれていないから、急に休みと言われても困ってしまう。それに良くも悪くもいいかげんな店長のことだから、二週間で帰ってくるのかも怪しい。
遊ぶついでに日雇いでも探すか、と着信履歴を眺めながらふと、部活や生徒会の連中がそろそろ下校してくる頃ではないかと、と画面をオープン状態に戻した。教室の入り口で雨竜にさよならを言ったのが二時間前。このままだと次に会うのは六十五時間後の教室だ。
茶度はメモリーからあまり掛け慣れない電話番号を呼び出して少し眺めた後、緑色のボタンをゆっくりと押した。
『はい 石田です』
「あー俺…」
五回のコールで出た雨竜にそう言いかけて、慌てて
「茶度だ」
と言い直す。前に「俺だ」と言ったら「相手に失礼だと思わないのか」とその場で切られてしまったことがあって、それを思い出したのだ。
電話の向こうの声に荒い息が混じるのは、帰ってきたばかりだからだろうか。ベルの音を聞いて慌てて部屋の鍵を開けて、靴もバッグも放り出してこの電話に出たのだとしたら。例えそれが自分からの電話だと知らなくても、と茶度の顔がささやかな喜びに歪む。
「今日バイトだろ、どうかしたの」
「急に休みになった。これから帰って晩メシにしようと思ったんだけど、もしお前もまだなら」
「おごってくれるの?なら寿司がいい」
「えっ」
「あ、もちろん回るほうでいいよ。大丈夫、高いネタそんなに食べないし野菜寿司ってのも結構好きなんだよね。うわぁ久しぶり、楽しみだな!」
「いや、ちょっ、それ…は…えー…」
急に活気づいた雨竜の声にしどろもどろになっていると、間を置かずけたけたと笑う声が耳に入った。
「今日はサバ味噌だよ、食べに来る?嫌いじゃなかったらだけど」
断るはずがない。平静を装った声で二十分後に、と言いながら、正拳突きでも繰り出しそうなガッツポーズをかまして足取り軽やかに通りへ出た。途中、頼まれた買い物を済ませてついでにコンビニに寄ろうとした時だった。入ろうとしたコンビニと隣接したスロット店の間の所に、蹲る子供が目に入った。
店の中に親がいて、帰りを待っているかと思ってそのままコンビニに入り、飲み物とお菓子を買った後雑誌コーナーから覗いてみると、子供はまだ蹲ったままだ。春が近いとはいえ日が傾けばまだまだ寒いのに、そんな所に子供を一人で待たせておくとは非常識な親だと思った。
子供は、自分の近くに人影がかかる度、顔を上げて辺りをきょろきょろと見回している。週末で混雑しているとはいえ、一人くらい声をかけそうなものだが誰も子供を気に止めず早足で行き過ぎていく。そんなにも自分のことで一杯なのだろうか。
時間の約束があるが、話せば雨竜は分かってくれるだろうと茶度は一〇分ほどそこで様子を伺って、やはり誰も声をかけないのを見て店を出た。
「どうしたの?」
遥か高みから降ってきた声に驚いたのか、子供は飛び跳ねるように立ち上がって顔を上げた。
女の子だった。白いニットコートの下からピンクのスカートが覗いていて、白いタイツに同じ色のブーツ。長い黒髪、眉に少しかかるくらいで切り揃えられた前髪が上品で、賢そうな印象を持った。
声をかけてから、一瞬躊躇った。こういう時の自分の外見が、他人にどういう印象を与えるか、分かっているからだ。今、彼女はとても大きくて怖いものが来たと思っているだろう。
泣かれるかな、と冷や汗をかきながら、『子供と話す時は目線を下げる』という授業と教科書と、テストの紙面を思い出して茶度はその場にしゃがんだ。それでもまだ少し茶度の方が大きかったが、背を丸めて女の子の顔を覗き込んだ。前髪の下で、黒目がちの瞳がじっと茶度を見つめ返している。
「パパとママは?」
女の子は首を横に振った。分からない、という意味にとっていいのだろうか。
「家は?」
女の子はまた首を振った。迷子なのか、茶度を警戒しているのか女の子は口を噤んだままニットコートを両手でぎゅっと握った。相手がしゃべってくれないというのはなかなか大変なことだ、と気付きながら、このまま向かい合っていても仕方がないので駅前の交番に連れて行こうと決めた。この子が何も分からなくても、捜索願いが出ていればすぐ家の人が来てくれるだろう。
茶度は立ち上げると、おまわりさんの所に行こう、と女の子に言って手を差し出した。その手に躊躇うことなく、小さな手はしがみついてきた。今までの不安や心細さを全てそこへ集めたような硬い強さだ。ひどく冷たい手を握り返すと、茶度は駅の方へ歩き出そうとした。
「いや」
今にも泣き出しそうな声が、茶度をまたしゃがませた。大きな目いっぱいに涙を溜めて、女の子は言う。
「おまわりさんの所には、行かない」
「行かないと帰れない」
言うや、溜まった涙がぼろぼろと零れて茶度は慌てて女の子を抱え上げた。
親の居場所は分からない。家もどこだか分からない。おまわりさんの所は嫌。
『恨むぞ、二〇分前の俺』
◆
一〇三号室。今その部屋の前を通ったなら、誰しも『懐かしい日本の風景』を思い出すかもしれない。包丁が俎板を叩く優しい音、ドアの隙間から漂ってくる夕餉の匂い。「ただいま」と入れば割烹着姿の山岡久乃でも出迎えてくれそうなところだが、この部屋のドアを開けて出てくるのは、青い猫のワンポイントがついた白いエプロンの男子高校生だ。
その彼は、専用にブレンドした味噌でサバの切り身を煮込み、味見をしてにやりと笑って火を止めた。サバはこのまま暫く味を浸みさせて、後は味噌汁にまた別の味噌を溶かしこんでおしまいだ。
洗い物をしながら冷蔵庫の側面に貼り付けた時計を見ると、茶度との約束の時間はとうに過ぎていた。どこを寄り道しているのか、遅れて来るならそれなりに連絡をくれるそうなものだがその気配すらない。
両手を拭くと、玄関に並べたツッカケを踏んで玄関の鍵とチェーンを外し、真っ暗になった外を伺った。
「どーこほっついてんだよ、もう」
そう溜め息と共に吐き出した時だ。
「石田」
閉まりかけたドア板を掴んで、近所の家の明かりを後光のように背負って茶度が顔を見せた。
「二〇分遅刻」
上がり口に立って、雨竜は時計を示すように自分の手首を指でとんとん、とやった。
「すまん。…これ、頼まれた生姜」
「ありがとう。上がりなよ、すぐできるから」
今日の主菜の決め手を受け取ると、頬骨の辺りに唇を押し付けられる。これが、雨竜は困る。
茶度にとって挨拶の行為は、育った文化が違うとはいえひどく恥ずかしい。彼としては本当は別な所にしたいのだろうし、抱き締めたりもしたいのだろうけど、そんなことをされたら恥ずかしすぎて心臓が止まってしまう。雨竜がそんなおかげで、茶度はなんとか平静を保っていられるわけだが。
茶度が笑うのでむくれて動かした視線の先。静かだが、驚きの混じった声が出た。
「……どちらさま?」
あぁ、と茶度が思い出したように振り向いて、黒髪の美しい女の子を招き入れた。
「迷子」
「…は?茶度くん?…っていうか、ちょっと待っ…」
大きな瞳が、瞬きもせずに雨竜を見つめている。
茶度くん、どうしてそんな普通にしているんだ?
作品名:Call my name サンプル 作家名:gen