ぐい飲み一杯のしあわせ
嘔吐の不安も有りつつも、(あ、一瞬、大人の表情、した)なんて緊張感のないことを考えてしまう。ずっと一緒にいた相手の、初めて見た表情。心臓がどきりと鳴る。
「俺は…」
そして…
スパァァァン!その瞬間鳴り響いたのは、襖が勢いよく滑って叩きつけられた乾いた音。
「寝るっ!!!!!!!!!」
勢いよく廊下左側の襖を開けると、そこは不破家の道場ほどの広い部屋で、硬くもなく緩くもない、しっとりとした上質の畳がずらりと敷かれ、だだっ広いそこは壮観だった。腕を力いっぱい引っ張られ、一緒に部屋に連れ込まれる。後ろ手では、今度は千聖君が目いっぱいの力で襖を閉めたせいか、乾いた大きな音が再び鳴った。
「え…!?ちょ!!千聖君っっっ!?!?!?」
その一方で、い草の柔らかいにおいが自分たちをふんわりと包みこみ、気が緩んだのか、千聖君は雪崩れ込むように畳につっぷした。
だん!と大きな荷物が堕ちた様な豪快な音が響く。
「ちょっ…事件現場の、死体じゃないんだからっ…!」
そう言いながら、腕を取る。寝るなら寝るで少しでも体勢を立て直さなければと思ってのことだった。
起こさないと!
「布団、用意してもらうから…っ!」ぐい、と腕をひっぱる。起きない。
せめてちゃんとお布団で!
「一瞬だけでいいから…起きて!」指の先でぺちぺちと軽く、頬を叩く。
「くぁ…うるさい…」
「うるさい、じゃないよ!布団敷いてもらうから、ちょーっとだけ、ね?我慢して?ね?」
(ぐいぐい)
「ねか…せ…」
ごろりと体を回転し、仰向けになった千聖君はさも面倒くさそうに手の甲で目を覆った。ちらりと向けられた目線が私の目を捉え、どきりとする。
さっき感じた「大人の表情」。
けだるそうな雰囲気と、少し開いた口元。優しい雰囲気の垂れ目がちの目なのに射抜くように見つめられ、そして、ある種の妖艶さのようなものを見せつけられ、ひるみそうになる。
けれど、ここで寝られたら困るのは変わらない。
「ここで完全に寝こけないで!一瞬でいいから!ね?」
(ぺちぺち)
そして、もう一度腕を引っ張って(無理だとは分かっていたが)引っ張り起こそうとしたとき、逆に腕を取られ、胸に倒れこまされる。
どん、と勢いよく倒れ込んだはずなのに、千聖君の体はびくともしない。むしろ、「つかまえた」と言いたげに、抱え込む腕の力が一層強くなる。
千聖君の顎元と、自分のおでこがくっつく。
ふぅ、と千聖君が息をするたびに、ふわりと前髪が動く。むず痒い。
上目遣いに見遣り、「千、聖く…ん?」と精一杯声を出す。連れ込まれた時の、心臓が痛くなるほどの高鳴りで喉がからからになっている。
「…まえ、が…」
「!」
「…まえ、は…」
「?」
「気分は…?」
「気分?…あぁ、酔ってるか?ってこと?ほんのりは酔ってるけど、『気持ちいい』ってくらいだよ。」
すぅと空気を胸いっぱいに吸い込む。
再度安心させるために、「気分は全然悪くないよ。」と伝える。
「お前が、無理を、しな、い、なら…」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「勧めら…れたら、断れないだろ…」
不快な酒臭さではなく、ふんわりと甘いかおりが鼻腔をくすぐる。それも、やはり上質な酒である故かもしれない。
熱くて甘い千聖君の息が前髪にかかるたび、物理的なくすぐったさか、精神的なくすぐったさか、身をよじりたくなる衝動が抑えきれないのは酔いが回ってきたばかりのせいではなかった。
「…それで、いい…」
とっとっとっとっとっ。
心臓の音が軽やかに弾む。一つの心臓の音、そして重なるもう一つの心臓の音。
廊下でかけっこをする子どものそれの様で。
腕も、手の先も、吐息も、触れている部分全てが熱い。
千聖の首筋に鼻が当たる。そこも、熱の膜が覆っているかのように熱い。
自分を守ってくれる強さ、自分を想ってくれている熱。
今こうやって見せている酔って弱った姿も、全てが、愛おしい。
「…千聖君」
そういって、彼の熱、においを、すぅぅと吸い込む。
今にも蕩けそうにくらくらして、それだけで酒以上の酔いの効果があるように思える。
あぁ、酔ってしまった。
酔わされてしまった。
少し上向き加減に顎を向け、口元のほくろに唇を寄せる。
千聖君が、もうとっくに眠りの世界に落ちていたことは知っていた。
千聖の胸に置いている手を動かし、真奈美の腰もとで組まれた千聖の腕をそっと解く。
そしてまた繋ぎなおす。
自分の左手と、千聖の右手と。
冷たい手に、全身熱い恋人の熱が伝わる。
この手はこの手で、この人の熱を吸い取ってしまえばいい。
「…だいすき」
熱と、お酒のにおいがぐるぐる混ざり合う空気の中、千聖君の手は私の手をきゅっと握り返した。
作品名:ぐい飲み一杯のしあわせ 作家名:みろ