その感情の名前
ササライはランプに油を足しソファに腰かけると、読みかけの本を手にとった。
しかし一行も読まぬうちに部屋の窓がコツコツと鳴った。
その音に顔を上げると心待にしていた人物が窓の外に立っている。
彼がいつ来てもいいようにとそこの窓の鍵が閉まることはない。
「開いてるよ」
言いながらも駆け寄り彼が窓を引いて開けるのに習って手を添えて一緒に押し開けた。
「こんばんは」
「おかえり」
「……ただいま。いつもこんな夜更かししてるんですか?」
「明日はミサも会議もないから今夜はいいんだよ。それより寒かっただろう。早く入って」
ほんのり冷気をまとった相手を招き入れる。
「こっちは大分寒くなりましたね。ずっと南に居たので体がびっくりしてますよ」
室内の暖かさに肩のこわばりを解いてナッシュは一つ大きく息を吐いた。
「温かいお茶を入れるよ」
テーブルのポットに手をかけると用意された二組のカップを見たナッシュが少し困ったような顔で微笑む。それから何か思い出したらしく「ああ、そうだ」と大きくはない荷物をあさり、平たい蓋のついた瓶を取り出した。
「頼まれてた茶葉を買ってきたのでそっちにしましょうか。やりますよ」
ナッシュにポットを取り上げられ、席に座るように促された。素直に従い席につくと慣れた手つきで茶を用意するナッシュの姿を眺めながら待つ。
少し不思議な気分だった。目の前にナッシュが居る。ナッシュと言う人間の存在すら疑った時期もあり、こうして知った今も目の前に居ないと実感がなかった。
「あっ」
「え?あっ!」
注ぎすぎた茶がカップから溢れソーサーへと流れ出した。
「す、すみません。ぼんやりしてました」
ナッシュ本人も自分で驚いたようだが、淀みない所作に見えていたので心配になる。
「大丈夫?」
「はい」
入れ直された茶がカップ二つ。ナッシュも漸く席についた。
「ん?」
ナッシュのもの言いたげな視線に気づいてササライは顔を上げる。
「……どうですか?」
「ああうん、美味しいよ。本物の味だ」
「よかった。報告の通り今回、偵察がまったくの空振りだったじゃないですか。せめて土産ぐらいはちゃんとしたものを持って帰りたかったんですよ」
「君ならちゃんと買ってきてくれると思ってたよ?」
「いや恥ずかしながら、そのちゃんとしたものを知らなかったんです」
「ああ、お土産用のやつかい?交易で出回ってるのが殆ど偽物で偽物が本物になってるからね」
「あの後から付けた香りが苦手で。でも本物は美味しいんですね。驚きました」
「その代わり日持ちしないけどね」
途切れた会話に居たたまれなくなりササライは視線を落とした。
見られるのは慣れている。でもナッシュの姿を見るのはまだ慣れない。視界に入ると動悸がして落ち着かないのだ。動悸は自分の中から湧き上がる何かの衝動を感じて起きている。紋章の安定を保つ為に強い意志と共に常に心穏やかであることを教えられ、そうして生きて来たのに動揺する自分を持て余してどうして良いかわからなかった。
ただそれでも、ナッシュが居なければ平常心でいられるとわかっていても、ここに居て欲しいと思う。
「……ナッシュ、手を」
ササライはテーブルの上に差し出した。
「手、ですか?」
不思議そうに同じようにテーブルの上に出して来たナッシュの手をそっと握り込む。驚いて手を引きかけたナッシュだったが何かに気づいたように大人しくされるがままになった。
温かいカップの温もりを受け取った手は同じく温かだった。ナッシュがここに居るのだと実感する。視覚より触覚のほうを信用してしまうのは何故だろうか。
手元から視線を上げるとナッシュは何かに耐えるように俯いてた。そうしてササライは後悔した。気づいてしまったのだ。握った指先が微かに震えているのを。
自分の指先が冷えていくのを感じてササライはそっと手を離した。
そこにあるのは自分の満足だけだった。用意された茶器を見たときの苦笑い、視線に狂う手元、震える指先。
自分という存在がナッシュには重いのかもしれない。こんな夜遅くまで部屋の明かりが点いてたら待ってるのもわかってしまうから無視もしにくいだろう。自由に外の世界を走り回る生き方をしてきたナッシュが狭い世界に縛り付けようとするような自分は煙たいに違いない。
そしてササライ自身がどんな人間であれこの手に宿った紋章。どうしてこんな簡単なことにも気づけなかったのか。
「……もう夜も遅いから休もうかな」
ササライはふらりと立ち上がった。
「ち、違います」
慌てたような声に引き止められる。
「何……ナッシュ?」
見るとナッシュは何故か赤面していた。耳まで赤い。こんなにも動揺している姿を見るのは初めてで驚きで凝視してしまう。ナッシュは視線から逃げるように顔を伏せつぶやくように話した。
「気持ち悪いと思われたんなら謝ります」
「気持ち悪い?」
「いやその何て言うか、緊張してしまって」
「君が?」
それは自分の方だ。それに普段からのらりくらりと受け答える印象ばかりがあったから、そう聞き返したのだが彼には皮肉に聞こえたようで言葉に詰まっていた。
「ごめん、緊張って?」
「ササライ様を遠くから見ることが長かった所為か近くにいるとどうしていいか」
それは自分と同じだということだろうか。
すると顔を上げたナッシュと目が合った。
「でも嫌なわけではないんです。決して」
まっすぐに見据えられて、今度はこちらが赤面しそうだった。見られるのは慣れているけど、見るのは慣れていない。でも視線が外せない。
そんなふうに言われたら信じてしまうよ。こんな僕でもいいのかと。
「……うん、もう少し話そうか」
「はい」
少しだけ赤みが残ったナッシュの頬を見てわかったとこがある。この衝動がなんなのか。
触れたいのだ。家族の居ない自分には他人の体温が苦手だった。でもナッシュの体温を求めている。その中の熱に触れたい。
しかしそれを言葉にしてはいけない気がしてササライは違う話題を必死に探していた。