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早朝の浴室・貪る・水

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「臨也さん」
 さあさあと流れる水の音に混じって声が聞こえた。耳に馴染んだ、どこか子供っぽい声。
「臨也さん」
「聞こえてる」
 それだけ言って、気は進まなかったけど目を開ける。途端に、頭上から流れ落ちるシャワーの水が目に入りそうになって煩わしい。水分を含んだ睫毛が重い気がする。目の前には制服姿の帝人君。ネクタイだけないのは、それが俺の腕を戒めているからだ。そんな俺の状況はというと、改めて意識すると中々に滑稽。なんで自分の家の浴室で服を着たまま腕を縛られてそれだけならまだしもシャワー(しかも水!)を浴びせられながら放置されているんだ俺は。せめてコートでも着せてくれればよかったのに。
 横目で見た操作用のパネルの時計は深夜から早朝に切り替わったくらいの時刻。窓から見える空はまだ暗い。冬も近づいてきたこの季節、夜明けにはもう少し時間が必要だ。
「やあおはよう。俺もこんな趣味で商売なものだからさ、いくら身辺に気を遣っているとはいえ様々な種類の寝覚めを経験してきたけど今回みたいなのはこれが初体験だな実に馬鹿馬鹿しい気分だよ。まあ口内に拳銃を突っ込まれて意識が覚醒するよりずっとマシかもね。いや、そんな経験はさすがにまだないけどさ。あったら大変だ」
「はあ……」
 なんだか呆れたような声音で息を吐き、口調だけは丁寧におはようございますと俺の目を見ながら言って、手を伸ばしてくる帝人君。数時間、水に打たれっぱなしで熱を失った肌に触れる幼い形の指が心地よい。それに擦り寄ってみれば一瞬ぴくりと震えるもすぐに手のひら全体で頬を撫でられた。服を着たままの腕が濡れるのにも構わず、彼は俺から手を離さない。
「体調はどうですか?」
「頭が重い。放っておけば風邪をひくだろうね」
「そうですか」
 俺の返事に、帝人君の幼げな顔にぱあっと嬉しげな色が浮かんだ。未だにどこか子供じみた正義感(つまりは独善だけど)を持つ彼の精神に則って考えれば、人の不幸そのものを喜ぶのは彼の「正義」にそぐわない。ということは、今のこの嬉しげな顔の理由は別のところにある。それは確実に、彼がこんな暴挙に走った理由と密接な関係があるだろう。そうでなきゃ俺は縛られ損の水責め損の放置され損だ。他人に理不尽な行動を強いるときは、強いる側は心の底から楽しむのがせめてもの礼儀だろう。俺が勝手に思っているだけだけど。
「楽しそうだね」
「そっそうですか?」
「さっきから笑ってるよ。満足したならシャワー止めてくれない? こう何時間も音が響いてると耳がおかしくなりそうだ」
「あ、すみません」
 温かい手がするりと離れて、代わりにシャワーがタイルを打つ音が止む。排水溝に吸い込まれていく水の音がなくなれば久しぶりに無音を味わえるだろう。
「それで、何がしたかったの」
「え、っと」
「最初は、俺を拘束してその間に何かするつもりなのかなって考えたけど、それにしてはさっきの反応が解せないんだよねぇ。俺が体調を崩すことで何か利益でもあるのかな? それもわりと個人的な」
「……なんでそう思うんですか?」
「笑ってるから。君が心底嬉しそうに満足そうに笑ってるからだよ。その辺、解りやすいよね。公私の区別をつけすぎてるっていうのかな。真面目な君らしいとは思うけど私情とそれ以外を、ちょっとはっきりさせすぎだ」
 カラーギャングの活動を「公」に分類するのも我ながらどうかと思うけど、帝人君個人の意思でどうにかできないという意味では限りなく「公」に近いものだろう。そして彼の「公」の部分は個人の不幸を喜びはしない。なんとも潔癖なことだ。

 頭からぱたぱたと滴る水や張り付く髪がどうにも鬱陶しくて目を眇めながら見た彼はしばらく視線を忙しなく移動させて、結局は観念したのか、拗ねた子供のような声で話し出した。
「臨也さんて……いつも元気じゃないですか」
「そりゃあねえ。案外体が資本だよこの仕事も」
「僕のほうはその、風邪ひいたり怪我したりで結構面倒かけてますよね」
「面倒だと思ったことはないけど君が困っているときに世話をしてるという意味では、そうだね。………だからってさぁ、これは本末転倒じゃないかな」
 帝人君の返答でピンと来た。動機そのものはそれなりに真っ当なのに、どうしてこうも手段が歪んでいるんだか。
「俺の看病をしてみたいんだろ? いつも自分がされっぱなしだから。間違ってるかい?」
 勢いよく横に振られる首。子供みたいな丸い目が期待で輝いている。そうしていると本当、高校生にも、ましてやカラーギャングのトップにもとても見えない。そんな人畜無害な、むしろ害される側としか思えない子供の顔でやってることがこれなんだから、外見の印象なんて当てにならない。そんなことで人に睡眠薬を盛るなと。……どういう行動を起こすのか気になって薬入ってるなーって解ってたのに流された俺も俺だけど。好奇心は猫も人間も殺すよね。そういえばこういう薬の使い方、前に少しだけ教えてやったな。ちゃんと覚えてた上に自分流にアレンジを加えて実地で試すなんて、出来の良い生徒で嬉しいよ。でもね?
「滅多にない君の個人的な我が儘だ。できれば叶えてあげたいところだけど、俺にも都合があるんだよね」
 そう言って本当はとっくに自由になっていた腕を伸ばし、宥めるように彼の頭を撫でた。何も変わらずいつも通りに。
「君の思い通りにはなってやれない。ごめんね?」
「え、あれ? なんで、」
「ああ、ネクタイ駄目になっちゃったね。弁償する」
 状況についてこれていない帝人君の腕を取って引き、ついでに足も払って胸の中へと引き寄せる。反射的にしがみ付いてくる頼りなくもしっかりと熱を持った体。暖を取るように抱き締めながら耳元に唇を寄せて囁く。
「さて問題です。俺は、コートやジャケット以外ではどこに刃物を隠し持っているでしょう? 一、インナーの中。二、ベルトの裏。三、スラックスのポケット。四、スラックスの裾」
「え? あ、ええ、あっ、の」
「はい時間切れ」
 ちなみに正解は「全部」だ。ぱちぱち目を瞬かせている帝人君の薄い肩をぐっと掴み(冷えて握力が落ちてるからそれはもう思いっきり)まだ濡れたタイルの上へと叩き付けた。バンッと中々派手な音。跳ねる水滴。背中か肘か腰でも打ったのか、見下ろす顔が痛そうに苦しそうに歪む。
「ねえ、受身の一つも取れないと今後苦労するよ? うちの妹が通ってる護身術教室でも紹介してあげようか?」
「いざやさっ」
 声が途切れる。当然かもね。だって俺の膝が帝人君のちょうど肺の上辺りで体重かけてるんだから。
作品名:早朝の浴室・貪る・水 作家名:ゆずき