candycry
どれだけそうしていただろう。
くすん、と鼻を鳴らす音がして、ゾロは初めてサンジを振り向いた。サンジが泣いているのかと思ったのだ。どうしてそう思ったのかと問われても、それはゾロにも分からなかった。自分の身を案じて泣いてくれるのかと、無事でよかったと安堵してくれているのかと、多少の自惚れと期待がなかったといえば嘘になる。だが顔を上げて見てみれば、サンジは泣いてはいなかった。たよりない月明かりのもと、怒ったように顰められた表情は、いまにも泣き出しそうなのをこらえているかのようにも見えた。
サンジの口が開く。何か言うのか、と身構えたが、開いた唇は震えただけですぐに閉じられ、再び開くことはなかった。代わりに、ん、と鼻にかかった声を出して、サンジはずっとポケットに突っ込んでいた手をゾロに差し出した。
目の前で開かれたてのひらの中を見れば、飴がひとつ乗っている。ポケットのなかでどれくらい握りしめられていたというのか、飴を包むセロファンはしわくちゃになっている。ゾロは黙ってそれを受け取った。いつものように、こんなものより酒をよこせなどと軽口を叩く気にもなれなかった。
これまでゾロを避けていたサンジが、自らゾロに歩み寄る。ぺらぺらとよく回る口は喋り方を忘れてしまったかのように噤まれ、言葉もないままに飴をひとつだけ差し出す。まるで不器用なこどもの仲直りだ、そう思いながら、ゾロは飴の包みに手をかけた。
包みをひらけば、ぺりぺりとはがれる音がする。飴の表面が溶けてセロファンにべたついていた。サンジのポケットのなかで、サンジのてのひらに包まれて、サンジの熱を移されて、サンジに溶かされた飴だった。それを思えばうらやましく、そしてうらやましいなどと思ってしまう、浅ましくいやしい己が恥ずかしく、ゾロはそれらをごまかすようにつぶやいた。
「泣いてる」
「泣いてねェよ」
つぶやいた一言にかぶせるように、返ってきた声はやはり鼻声だった。
「てめェのことじゃねえ」
気づかぬ振りで、飴が、と付け足す。ずず、と鼻をすする音がする。
「なにそれ。飴が泣くかよ」
サンジの声はすっかり涙まじりだ。もう隠すつもりもないらしかった。そのくせ言い返してくる口調は人を小馬鹿にしたような生意気そのもので、思わずゾロはむっとする。
「泣くって……言うだろ」
こういうの、と言って、包みを少しだけ開いた、さっきサンジから受け取った飴を見せた。中途半端に解かれたフィルムの隙間から見える飴は、丸い形を保ってはいるものの、表面は溶けてなめらかさを失い、名残惜しげにセロファンに張りついている。
「え、言わねェけど」
「…………」
べそをかきながらも、今度は呆気にとられたように言うサンジに、ようやくゾロは、それが故郷特有の言い方なのだと気がついた。シモツキでは当たり前のように誰もが使っていたから、どこでも通用する言い回しだと、今の今まで思っていた。知らなかったのだから仕方ないこととはいえ、恥ずかしさで顔が熱くなる。
きっとこの、いちいち癇に障る男は、また馬鹿にするに違いない。世間知らずの田舎モンが、とかなんとか―――
「……でも、いいな、その言い方」
だがゾロの予想に反して、サンジの口から出てきたのは、ゾロの言葉をうらやむようなものだった。相変わらずまだ泣いてはいるようだが、その口元は笑んでいる。
「飴が泣くなんて、ロマンチックだ」
そう言って、サンジは潤んだ右目を細めた。その拍子に涙が溢れて頬を伝う。吐かれた言葉も濡れる頬も、ゾロの胸を締めつけた。
「なんで……泣くんだ」
ほぼ無意識に、言葉が口をついて出た。聞いてはいけないことを、聞いてしまった気がした。
「ずっとポケットに入れてたからだろ」
サンジの返事に、そうじゃない、と焦れる。
「飴のことじゃねえ」
てめェが、と、続けると、サンジは少しの間をおいてから、
「……泣いてねェよ」
と、顔をうつむかせた。その声は弱弱しく、力なく床に落ちる。ばさりと垂れた前髪が邪魔をして、ゾロからはサンジの表情が見えなかった。
「……そうか」
恐らく言いたいことなどやまほどあるのだろうに、何も言いたくないのならそれでいいとゾロは思った。言われたところで、きっと自分は、この男に返す言葉など何も持ち合わせていないのだ。
自らも立ち上がり、中途半端に解かれた飴の包みを、ゾロはゆっくりとはがしはじめた。ぺり、ぺりりと、いちいち音を立てるそれは、飴が包みから離れたくないと抗議しているかのようで、そしてそれは、この男から離れたくないと願う己と同じだとおかしくなって、ゾロは自嘲気味に笑みを浮かべた。
ゾロにとっては単なる故郷の言葉でしかない『飴が泣く』という表現を、ロマンチックだと喜ぶ乙女のような目の前の男が、いかに繊細で、いかに優しくて、いかに情に脆いか、―――いかに自分を大切に思っているのか。分かっているつもりで、ゾロはまったく分かっていなかった。だからサンジは泣いている。
セロファンをぎりぎりまではがされ、かろうじてくっついているだけになった飴を、ゾロは口に咥えて引き剥いだ。サンジを引き寄せ唇を重ね、その飴を口移しで舐めさせる。
「………!」
「飴、舐めて、泣き止め」
どうすればいいのか分からなかったから、自分がされたように、この男に飴を与えようと思った。けれどもらった飴しかなかったから、それしかあげられなかった。
「おれには、てめェにあげられるモンなんて、何もねェけど」
与えるどころか、自分は奪ってばっかりだ。それがサンジを傷つける、そう思っても、求めずにはいられない。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
おめェはいっぱい、おれにくれてんじゃねェか。泣きながら笑顔を作ろうとして失敗し、それでもサンジはゾロに顔を近づけた。ゾロの口に飴が戻される。
「……ッ」
再び重なった唇は、それからしばらく離れることはなかった。互いの口の中を飴が行き来して、とうとうそれが形を失い、飴の味すら消えてしまっても、二人は離れようとはしなかった。
くちづけたまま、サンジの足が巧みにゾロのバランスを崩させる。背中を支えられながら、ゾロは床へと押し倒された。そこでようやく唇が離れ、はぁ、と深い吐息が漏れる。
「ゾロ、……好き」
好き、好き、とその言葉ばかりを繰り返しながら、サンジはゾロの肌へと顔をうずめた。それはずっと、ゾロが待ちわびていたものだった。サンジが触れたところが、火傷しそうなほどに熱い。あの飴のように溶かされていくのだと思った。
「お前が、生きててよかった」
「……あァ」
死ぬわけねェだろ、とはとても言えなかった。あのときは確かに、死を覚悟していた。それは己の弱さが招いた結果だったのに、この男までも哀しませてしまった。
「おれも、お前が好きだ」
だから、もう泣くな。
どうしたらこの愛しい男を泣かせずにすむのかも分からずに、ただ万感の思いを込めてそう告げる。目の奥がじんとしびれてゾロも泣いた。