moria
折原臨也はこの粛清にひどく精力的であるように見えた。
「帝人君、この前の情報は役に立ったかな」
「はい、いつもありがとうございます臨也さん」
生活感のないリビングで、真正面に向き合って二人はにこやかに言葉を交わす。
ネットに存在するダラーズの内部を調べるのが帝人ならば、現実世界の動きを調べるのが臨也だった。帝人は臨也ほど現実世界にネットワークを持っていないし、臨也はダラーズの情報を開示させることなど出来ない。効率的な役割分担だと言えた。
「それで、臨也さん。報酬なんですが……」
「ちゃんと受け取ってるじゃないか。それとも不満かい?」
「……僕と喋ることが報酬になるとは思えません」
しかも、本当に普通の話をするだけだなんて。口を尖らせて帝人は言う。壁からソファから床までモノクロームの部屋は、無機質で寒々しく見える。ガラステーブルに置かれた揃いのマグカップが暖かな湯気をたてている。砂糖もミルクも入っていない、黒々としたコーヒーに口をつける。飲み慣れないそれは、帝人にとってただ苦いだけだった。
「にが……」
うっかり眉を顰めた帝人に、臨也はぷっと噴き出した。
「お砂糖をどうぞ」
「……どうも」
恥ずかしいのかしぶしぶ砂糖壷を受け取る帝人に臨也は笑顔を向ける。さっきの答えだけどね、と前置きをして
「俺は元々君から報酬なんて受け取る気、なかったんだよ」そう言った。
帝人はあからさまに不審気な顔をする。無償というものが最も恐ろしいことを帝人は知っていた。甘い言葉で誘っておいて、その裏にどんな思惑があるか知れたものではない。しかし自分に目をかけてくれている臨也ならば、本当に好意だけで協力してくれているという可能性もあるのではないか。
眉間に皺を寄せたままの帝人に構わず臨也は話を続ける。
「だからといって何もなし、じゃ帝人君は納得しないだろうしね。正直俺も話し相手が欲しかったところだし」
「話し相手なんて、いくらでもいるでしょう」
ようやくそれだけ絞り出すように言って、帝人は甘いコーヒーを飲み干した。それがだねぇ、と臨也は皮肉気な笑みを浮かべてひらひら手を振る。仰々しい仕草であるようだった。
「俺に進んで接触するような奴は大抵情報を掠め取ろうと狙っているんだよ。そんな奴と世間話をする気は起きないね」
はぁ、と頷きかけて帝人はこの部屋にいるもう一人の人間のことを思い出した。黒髪を真直ぐに垂らした女性である。
「波江さんがいるじゃないですか」
「波江か……彼女は俺を嫌ってるからな」
「そうなんですか?」
帝人は驚いたように目を見開いて、「ああでもそういう人でしたね」と記憶を手繰るように視線を上向けて言った。帝人が波江と実際に言葉を交わしたのはたった一度だけだ。しかしその対話は彼女の異常とも言える執着の一端を知るには十分すぎるものだった。臨也が首を傾けてそちらを見れば、当の本人は素知らぬ顔でキーボードを叩いている。自分に与えられた仕事用のデスクに腰を下ろしてこちらに視線を向けもしない。聞こえていない筈はないだろうに。つまらない女、と臨也はそのつまらない女が淹れたコーヒーを啜る。きちんとドリップされたコーヒーはいたって美味だった。
かちゃかちゃというキーボードの音をバックミュージックに、臨也と帝人は穏やかに会話を交わした。帝人が学校生活を口にすれば、臨也は、やれあの教諭は口うるさかっただの、あの教諭はこういう失敗をしただのと今も来良で教鞭を取っている教諭らを茶化して笑った。臨也が最近起きた依頼の話を話題に出せば、それは凄いことだとしきりに感心したり笑ったりすることで帝人も相槌をうった。
気が付けば窓の外はすっかり暗くなっている。時計の短針は既に真下を過ぎていた。
がたん、と不意に音がした。音をした方向に目をやると波江が無表情で立っている。
「帰らせて貰うわ。お疲れ様」
今の今まで一言も発することなく黙々と仕事をこなしていた波江は立ち上がるとそれだけ言ってさっさとバッグを肩にかける。もうそんな時間か、と帝人も腰を上げた。
「待った、波江」
「なにかしら」
「帝人君を送ってやってよ。すっかり暗くなってるからさ」
波江を制して臨也は言う。帝人自身は「そんな、悪いです」と言って首を振る。
「あなたがやりなさいよ」
「そうしたいけどね、俺はこれからお仕事さ」
嫌そうに顔を顰める波江にも構わず、臨也は言い募る。帝人君は学生だし、一人じゃ心配なんだよと笑って、これも仕事のうちなんだからさと語った。
波江は仕方ないと言わんばかりに大きく溜息を吐くと、「ついて来なさい」と言い放って踵を返した。帝人は波江の背中を目で追ってから臨也に頭を下げ、玄関に向かって駆けた。ばいばい、と臨也は二人に向かって手を振る。玄関を潜った二人の姿が見えなくなってから、臨也は部屋の奥へと姿を消した。
池袋の夜は明るい。大通りにはまだ人が多く行きかっており、あちこちが微かな喧騒で包まれている。
波江は赤いヒールをかつかつアスファルトに叩きつけながら歩く。帝人はそれに言葉もなく従っていた。何かを話さなくてはいけないのだろう、そう帝人は思う。歩いているから多少はましとはいえ、沈黙は痛いほどである。
「竜ヶ峰帝人」
「えっ、は、はい」
急に名前を呼ばれて弾かれたように帝人は顔を上げる。驚いた拍子に裏返った声を恥じるように頬を紅潮させて、
「なんでしょう」
と、今度は慎重に声を発した。
波江はただ前を向いたまま
「あの男に気をつけなさい」そう言った。
誰を指しているのか一瞬悩み、それが臨也のことを言っているのだと気付いて帝人は思わず波江の横顔を見上げる。開いた口からは非難めいた声が出た。
「臨也さんは、少なくとも僕にとって悪い人ではありません」
「……そう」
帝人の言葉を特に否定も肯定もせず、波江はヒールの踵を鳴らして夜道を歩く。どことなく気まずい空気が流れ、「……すみません」堪えられなくなった帝人がか細い声で顔を伏せた。
「謝らないで」
惰性から生まれた謝罪の言葉をぴしゃりと一蹴して波江は言う。
「どうせ考えを変える気はないんでしょう」
「すみません」今度ははっきりとした声だった。
強情だこと、と波江はわざとらしく溜息を吐いて、居丈高に靴音をたてて歩いた。街灯に照らされたアスファルトは、昼間とは違い冷たい黒さを呈している。触れれば凍えてしまいそうだ、と帝人は俯けた視界でそう思った。波江の赤いヒールが目につく。言葉にもならない人の声が波のように耳を通り過ぎていく。ネオンの黄色やら青やらの光が目に沁みて、ぎゅうっと目を瞑った。
「ここよね」
赤いヒールが歩みを止めたので帝人は前を行く女性の凛と伸びた背中を見つめた。視線の先にはよく見慣れた古いアパートが見える。行き先もわからずついて歩いていたが、どうやら送って貰えたらしい。理解した途端、申し訳なさと情けない思いが心を占める。女性に送って貰った、という事実が余計にそれを増長させた。
「すみません、送っていただいて」
「仕事だもの」
動じることもなく言い放つ波江にますます恐縮する。すみませんとありがとうございますを何度も繰り返しながら頭を下げた。
「もう帰るわ」