moria
僅かに肌寒い朝の空気を思い切り吸い込んで、帝人は大きく伸びをした。
下駄箱で靴を履き替える。ちらほら登校してくるクラスメイトを横目で見ながら廊下を歩き、自分の教室を目指す。
少しばかり睡眠不足な頭は呆けてばかりで、どことなく気だるい朝に辟易する。
ぼんやり前を向いて歩いていると、ひとだかりにぶつかった。ちょうど帝人の教室の少し先に、大勢の生徒が何かを囲むようにしている。低いざわめき声の向うで一際高い女性の声が廊下に響いて、帝人はぱちりと目を瞬かせた。
「ああ、会いたかったわ誠二!」
「ちょっと、何やってるんですか誠二さんが嫌がってるじゃないですか!」
矢霧波江と、張間美香。ぎゃんぎゃん言い争う二人と、その間に挟まれた矢霧誠二を眺めて、朝から元気だなぁと帝人は欠伸をひとつ、零した。
朝の、どちらかというと閑静な校内に甲高い女性の声が響き渡るものだからあっという間に注目が集まっている。人だかりを珍しがってまた人が寄ってくる。そうしてまた人が増える。以下エンドレス。
それにしても波江が来良にまで来るとは珍しい。ひょっとしたら初めてのことではなかろうか。帝人は以前彼女と顔を合わせているので彼女の異常なほど重い愛も誠二との関係性も知っているが、そうと知らないクラスメイトや教師が廊下の惨状を見てどう思うかは、推して知るべしである。
まあ自分には関係ないことだと教室に入る。杏里はまだ来ていないようだった。
そういえば今朝は青葉くんにも会わなかったなぁ、などということをつらつらと思考する。珍しいが、今までもない訳ではなかった。
昨日は臨也さんに会うために一人で先に帰っちゃったんだよな、二人に謝らないと、そういえば結局二人は一緒に帰ったんだろうか。そこまで考えて帝人は渋い顔をした。
いくら外せない用事だったとはいえ、青葉と杏里が二人だけで仲良く下校しているのは少し、いやかなり面白くない。ダラーズ関連の事案だったので杏里を誘うのは無理だったとしても青葉も連れて行けばよかっただろうか。
けれど彼が臨也を訪ねるのを了承しないだろうことは明白である。
青葉はどうやら臨也が嫌いらしい、ということは帝人にもありありとわかった。はっきりと態度に表れていたし、本人も何度となく明言している。
二人はどことなく似ているという印象のせいか、青葉のそれは同族嫌悪なのではないかと帝人は思う。同族嫌悪なら臨也からの感情も良いものではない筈だが、そこはそれ大人と子供の違いだろう。よく知恵が回る青葉でも子供らしいところがあるのだなあと思うと、おかしさがこみ上げてきて、帝人は教室の隅でこっそり笑んだ。
「おい」
ふと、落ち着いた平坦な声が背中にかかって帝人は後ろを振り向いた。
「矢霧くん?」
あれだけ騒いでいたのが嘘のように廊下に人の気配はない。矢霧波江はもう帰ったのだろうか、と辺りを見回すが、それらしい人物はすでに影も形もなかった。
元々口数が多い方ではない誠二から差しだされた白い封筒を帝人はおっかなびっくり受け取る。矢霧誠二も、その腕にぴったりくっついた張間美香も何も言わずじいっと帝人を見つめるので、帝人は口を開くことすら躊躇った。視線から逃げるように封筒に目を落とすと、小さく整った字が目に入る。
【竜ヶ峰帝人へ】
はっと顔を上げると、誠二は無言でひとつ頷いて、張間美香を伴ったまま踵を返して教室を出て行った。
矢霧波江からの手紙。
何が書いてあるのだろうか、帝人への恨みつらみだろうか。ぞろぞろ人が出ていく教室で、帝人はそっと封を切った。
白い封筒と同じ、飾り気のない白い便箋。震える手を押さえながら開いたそれにはたった一言だけ、簡潔な言葉が添えられていた。白い紙に、染みのように滲んだ黒いインクが文章を形成している。
【あなたの一番大切なものを、あの男は利用しようとしているわ】
十分だった。
ひゅう、衝撃に喉が鳴る。便箋を持つ手がぶるぶる震える。目が乾くほど大きく開かれる。面と向かって波江本人から言われれば笑って否定していたであろう内容は、あからさまに盗聴や監視を意識した手法を使われたことによって真実味を増していた。くしゃりと紙が皺をつける。帝人はもう一度文章を舐めるように読み、それから細切れに便箋を破って捨てた。びぃ、と紙の引き攣れる音が断末魔のようだった。