moria
「セルティ、メールが来てるよ」
控えめにバイブ音を響かせる携帯を持って、新羅はリビングに腰掛けるセルティに話し掛けた。
昨日あれだけ荒れていたセルティだが、一晩経ってようやく怒りが収まったらしい。
新羅から手渡された携帯を素直に受け取り、画面を眺める。いや、眺めているという表現は不適切であろう。首の断面からゆらゆら揺れる煙が前のめりに吹かれて、画面を眺めているような雰囲気である、ということが正しい。
いつ見ても不思議な光景だ、と新羅はコーヒーのおかわりを注ぎながら愛しい恋人の後姿を眺める。長年一緒に暮らしてきて見慣れているとはいえ、彼女以外には作り出せない光景に胸が躍るのはやはり恋の類であろう。
全人類を愛して止まないと豪語する友人であれば、「そりゃお前、病気だよ」と評するかもしれないが。
『誰からだろう』
見慣れないアドレスに、迷惑メールの類かと思いながら本文を追いかける。
数行も読み進めないうちに、ぴたりとセルティの動きが止まる。そして猛烈な勢いでPDAを操作し始めた。
『し、ししし新羅、こ、このメール、あいつからだどどどどうしようう』
「やあ宇宙人にでも会ったような驚きようだねセルティ。一体誰からのメールなんだい」
淹れたてのコーヒーを手にしながら、動揺がありありと現れているPDAを眺めてのんびり新羅は聞く。セルティは再びPDAを叩き、驚きとも慄きともつかない感情を吐き出した。
『あのいけすかない子供だ!確か黒沼とか言う!』
「帝人くんの知り合いだって言ってた、彼かい? こりゃまた、あれ以来音沙汰なかったのに」
お友達になりたいのだと、臨也によく似た笑顔を携えて突然訪ねてきた子供にメールアドレスを教えて以来、全くと言っていいほど接触はなかったというのに、ここにきて唐突なメールだ。何かあるのではないかと勘ぐりたくなる気持ちも当然ではなかろうか。
『ど、どうしよう新羅。着信拒否しようか。でも帝人の知り合いだし、無視するのはよくないかな?』
そこで友人の心配をするセルティも素敵だよ、と言い置いてから、最も重要なことを口にする。
「まあ落ち着きなよ。内容は何なんだい?」
『な、内容、そうだよな内容』
それが問題だった。それが友人だと自負する帝人に関わることであれば差出人が黒沼青葉であれセルティは駆けつけたであろう。しかし、メールを最後まで読み進めたセルティは少し考え込んでからゆっくりPDAを打った。まるで何かに悩んでいるような手つき。
新羅はそんな彼女の様子に口も出さず、じっと見守っているだけである。
『新羅、これ……』
画面を差し出す。見ろ、ということなのだろうと解釈して新羅はセルティの携帯を受け取った。簡素な文字列。顔文字も絵文字もない、業務連絡のような味も素っ気もない文章。
「こりゃあ……」
唸るように言って、それきり黙ってしまう。
『どうしよう』
確かにそれはセルティを悩ませるであろうメールだった。やはりあの子供は性格が臨也並みに捻じ曲がっているらしい。
湯気を立てるマグカップを手にしたまま、ゆったりとした歩調で新羅はセルティの横に座る。それから、何よりも愛しいものを見る優しい顔で、ゆっくりと、しかしはっきりと問うた。
「セルティはどうしたい?」
ふかりと濃い黒煙がのっぺりとした断面を呈する首から浮かんだ。黒煙はすぐ近くに座る新羅を撫でて、すっと宙に溶けて消える。
『それがわからないから聞いてるんだ』
「僕は、セルティがやりたいようにすればいいと思うよ。それに反対なんてしないさ」
どこまでも優しく、どこまでも明るく新羅は言う。夕ご飯のメニューでも決めるかのような気軽さと朗らかさ。
啜ったコーヒーは底の見えない黒い色。
『新羅……』
「よく考えるといいよ、セルティ。俺はセルティに反対しない。例えそれが、」
そこでひとつ、呼吸を置いたように見えたのはセルティの気のせいだったのかもしれない。新羅は先程と微塵も変わらない優しい笑顔で、朗らかな口調で言うのだ。
「私の友人を陥れることだとしても」
暫し、沈黙が場を占めた。恋人同士は見詰め合って動かない。ただし、漂っている雰囲気には甘さなど欠片も存在していなかった。
かちゃ、とPDAを叩く音が遠慮がちに響く。
ひどく緩慢な、迷っているような呆れているようなスピード。
やがてずいっと目の前に突き出されたPDAには簡単な文字列が浮かんでいて、それを見た新羅はいっそう笑みを深くした。
『新羅はそれでも、いいのか』
「俺にはセルティがいればいいのさ」
やはり、新羅の声はどこまでも軽かった。