だから、側に居て
エピローグ
外気の寒さに目を開ける。
折原臨也は見慣れた自分の寝室で、ぼんやりと手を動かして抱き込んでいたはずの体温を探したけれど、確かに一緒に寝たはずの少年の姿はそこには無かった。
硬い机の上で貪ったその体は、あちこち痣になっていて痛々しく、ぐったりと気絶した少年を家に連れ帰ってケーキは明日だねなんていいながら、薬を塗ってやって・・・途中から、まあ、その。
俺もまだまだ若いってことだ。
耳を澄ませば、あたりはしんと静まり返っている。少年をこの手に抱いたのは夢じゃなかったのか、不安になって臨也は起き上がった。裸じゃ寒いはずだと悪態を付きつつ、あちこちに無造作に脱ぎ捨てられた服を着て、リビングへの扉を開く。
件の少年は、窓に手をついて空を眺めていた。
寒さにはかなわなかったのだろう、ごうごうとリビングのヒーターがフル回転する音がする。部屋着を身につけた上にブランケットをかぶって、少年はキラキラした瞳で一心に空を見上げる。
ああ、と息をついて、臨也はその横顔を見つめた。それはとても愛しい物を見るような瞳で、おそらく親しいものでも目にしたことのない類の顔だろう。
少年の大きな瞳に映る空には、昨晩から降り止まない雪がふわふわと舞い、窓からはうっすらと雪化粧した街並みが覗く。それは少年の好奇心に十分に訴えるものだったかもしれないが、臨也の目には、彼の横顔の方がよほど美しく見えるのだ。
ああ、この顔だ。
それは一年前の二月のこと。
一般受験のその日、東京池袋には雪が降った。昔は一月から3月までを春と言ったらしいが、現在では一月二月は一年のうちで最も寒い時期でもある。雪がちらつくくらいは珍しくないかも知れないが、こんな大事な日に降ることはなかろうに。
こんな日に受験だなんて今年の受験生はついてないな、とテスト監督のために学校を訪れた臨也は思っていた。
現に悪天候のせいで電車が遅れ、試験の開始は一時間ずれ込んだのだ。まだ到着しない生徒たちは死に物狂いだろうし、すでに到着済みの生徒たちにとっては空き時間は緊張との戦いになる。
教員たちもテストが始まらなければ仕事にならないので、空き時間をどうしようかと考えていた臨也の目に、少年が飛び込んできたのはその時だった。
少年は、黒い学ランの上にマフラーをまいただけの姿で、廊下の窓にひっつくように空をみあげていた。吐く息は白く、短い頭髪のせいか妙に寒そうに見えるのに、その瞳はキラキラと嬉しそうに雪を見つめている。
意外だな、と臨也は思った。雪は降る、落ちるとつながってそれほど縁起が良くない。まして降ったあとの道は滑る、受験生には禁句のような存在だろうに。何がそんなに嬉しいのか。
「君、寒くないの」
暖房の効いた教室とは違って、廊下はただただ冷える。仮にも受験生なら指先を冷やさないようにするとか、あいている時間に一つでも多くの単語を覚えればいいのに、と声をかければ、少年はろくにこちらを見もしないで答えた。
「寒くないです」
そういう問題じゃねえよ、とは、さすがに言えない。すっかり意識が雪に持って行かれているらしい。
臨也は目を細めて、その少年の横顔を見つめた。特に、嬉しい楽しいという気持ちをぎゅっと閉じ込めたような瞳の色を。少年の姿はとても学校という場所に似合っていて、それはまるで一枚の絵画のように、モノクロの冬景色を彩った。少年の居るところには、温度がある。臨也はなぜだかそう思って、だから、触れたいような気がして困って。
「・・・なぜ、今日雪が降ったと思う?」
ただその困った気持ちをどうにか紛らわせようと、ろくにこちらに注意を向けていない少年に問いかけた。別に無視されても構わない質問だったけれど、少年はぱちりと瞬きをして、ふわりと笑う。
「問題ですか?」
テストにこんな問題が出るわけはないが、臨也は笑って答えた。
「そう、問題です」
その目がこちらを向けばいいのに、と思う。空を見上げる瞳は綺麗だけど、遠い。そうじゃなくてもっと近くに、その目を感じたいと。
少年は少しだけ考えるように首をかしげ、それから小さくクスクスと笑い、臨也の願いに答えるようにくるりとこちらを振り返った。
そうして、その声が。
「運命です」
そんなことを、言うから。
臨也はますます、彼に手を伸ばしたくなって、焦って。
「帝人−!お前何やってんだよ、廊下寒いだろ!」
だからその時、そうして空気を壊してくれる声があってよかったと思う。真剣に、思う。友達に呼ばれたらしく、少年が反対方向に振り返り、
「ごめん!今行く」
と走りだした、その背中を見送って、臨也は呆然と途方に暮れた。
今、自分は何をしようとした。
今。
この場であの子を抱きしめてしまいそうだったのでは、ないか?
それを恋だと自覚するまで、長くはかからなかった。合格発表の時、入学式の時、「帝人」と呼ばれたその少年を探して歩いたことも、否定はしない。最初の授業、窓側後ろから二番目の席、彼の姿を見つけた時の歓喜を、なんと表現すればいいのかわからない。
震えるほどのその歓喜。
そう、少年は臨也の世界を、確かに揺るがした強烈な風だった。吹き飛ばされて落ちるところまで落ちて、それでも抱きしめたくて思い切り両手を広げて。先生と呼ばれるたびに否定したい衝動にかられて、必死に自分を抑えつけた。そんな、役職の名前で呼ばないで、俺を呼んでよと。
じりじりと近づいて、ゆっくりとゆっくりと馴染んで、いずれその近くに自分が居ることが当たり前になればいいと思っていたから。だから帝人の家に泥棒が入ったとき、攫うように連れ去って、大家に改装を促して一緒に入られる期間を伸ばしたりして。
「おかえり」と言われて、泣きそうになったり、して。
「・・・帝人君」
呼びかける。あの時と違って、今度はちゃんと振り返って、帝人は臨也の名前を呼ぶ。
「雪、まだ降ってるんです、綺麗ですね」
無邪気に笑うその笑顔が、昨日はあれほど艶やかに喘いだのが夢のようだ。淫らにもっととねだったのと同じ声で、こんな、清らかなことを言うのだから困る。
可愛くて、困る。
「・・・問題です」
抱き寄せてその唇に喰らいつく代わりに、臨也はいつかと同じ言葉を口にすることにした。白い首筋に残る自分の付けた所有印にさえ、嫉妬しそうなこの恋慕を、持て余している。
「今日、どうして雪がふったのでしょうか。十字以内で述べよ」
どんな答えが返っても、それが帝人の出した答えなら、百点をあげる事ができるかもしれない。教師は生徒に平等に、なんてくだらない。教師だって人間なんだから、多少の贔屓が会って当たり前じゃないか。特に国語なんてのは、文章を通した人柄の勝負だ。そういう意味で、帝人程面白い人間は他にない。
帝人はきょとんと目を見開いて、それからパチパチと三度、瞬きをした。考えこむようなその仕草は、もしかして今の質問に覚えがある、とでも思っているのかも知れない。けれどもやがて小さく首を振り、窓から離れて臨也に近づき、帝人はふにゃりと笑う。
まるで、とてもとても幸せだとでも、言うように。
「この答えは、自信あります」
そうして少年は、勢い良く臨也に抱きついて、言うのだった。