喰らふ
徳川家康はふとした時に、冷え冷えとした立ち姿の、常に抜き身の刃を携えているような危うさを持つ同輩について考えている。
それは季節の移ろいを告げる薫風に身を任せた時や、晴れ渡る蒼穹につい片手を伸ばしてみた時や、煌々とした月夜に淡くつよく光を放つ月輪を見上げた時に。
うつくしいと思うもの、好ましいと思うものに出会い思わず眼を細めるような瞬間に、家康はあの男のことを考える。
三成は、この風を、空を、月を、愛でることがあるだろうか?
自らのうちで問いかけて、どうにもその姿が思い描けないことに苦笑する。くだらない、そんなものに眼を向けている暇があったら秀吉様のために云々と、物静かな外見に反して強烈な口調で反論する姿まで浮かぶものだからどうしようもない。
食べることにも寝ることにも、何かを所有することにも興味がない男だ。それは季節がいくつか移り過ぎる時間を同じ場所で過ごしていれば、すぐにわかることだった。彼は喜怒哀楽のすべてをただひとりに捧げて、自身は一本の刃になろうとしているようにすら思える。
それをどうにか人間へと押し戻したくて、家康はいつも、つい口を挟まずにはいられなかった。
そんな風に思っていた家康だから、実は、三成が生身の人間だということを誰よりも忘れていたようなものだ。
それを思い知る羽目になったのは、戦と戦の合間の、平穏で何の変哲もない或る日のことだった。
豊臣軍の巨大な砦のひとつの中で、いつものように家康は三成の居室へ向かっていた。家康がこうした時間に三成の居所を訪ね始めた初めのうちこそ、何の用だ用がなければ去れ邪魔をするな、と喚いてばかりだった三成も、最近では黙殺するほうが楽だと気づいたらしい。
三成が一心に書簡仕事をする傍らで、胡坐をかいてくつろいだ家康は勝手にぽつぽつととりとめのないことを喋る。秀吉公の話や戦の話になればすぐさま決裂して終わるのは見えていたから、こうした時には出来る限り、それこそ自分が見つけた些細な喜びや綺麗な物の話を聞かせることにしていた。
三成は大概、家康などそこに存在していないという風に装って黙々と仕事を続けているが、時に我慢ができなくなるらしく痛烈な皮肉を放つ。それを拾いあげて家康が言葉を返せば、三成がまたそれに答え、いつのまにか結構長く話が続いていたりするのだ。家康がそうしたことに費やせる時間などわずかなものだったが、彼はそんな過ごし方を気にいっていた。
この日も同じく、自分が手にした短い時間で三成に他愛もない話を聞かせようと思っていた。
そうして三成の居室にほど近い、彼が与えられた区画へ足を踏み入れたところで、家康はふと違和感を覚えた。それまでゆったりと進んでいた歩みを一度止めて、かすかに首をひねる。
―――空気が、ちがう。
どこか、常とは違い、さざめくような浮足立っているような気配がした。状況としてはむしろ静まり返ったその区画は、冷えた静寂の下に密やかな囁きとうねりを孕んでいるような気がするのだ。
だが、敵意は感じられない。不穏なものではない。
先客がいるのだろうかと思いながら、ともかく家康は歩みを再開した。
普段の家康であったなら、もしかしたら、その時点で何かに勘付いていただろう。周囲のあらゆるものに対して嗅覚が鋭くなければ生き残れない環境で生きてきた家康が、たとえばその空気に混じった仄かな白粉の香りに、気付かないはずはなかった。
しかし、家康はこの相手に関しては、その可能性をすっかり忘れきっていたのだ。
そしていよいよ三成の居室へ近付いたというところで、
「恐れながら、」
背後から硬い声がかかった。
家康が振り向けば、すでに見知った三成に近しい配下の一人が、膝を折って控えていた。常であれば、根を詰めすぎる主を心配する部下たちは、主の不興を買うので口にはしないものの、家康の到来を歓ぶような気安い様子を見せる。
今日の畏まり方にはやはり普段との差を感じ取って、家康は「どうしたんだ?」と尋ねた。
「誰か先客がいるのか?それほどかからないならばワシは後からでも」
「家康様、今日はどうかこのまま御自分の居室へ御戻り下さい」
淡々と告げられた拒否に、家康は思わず眉根を寄せた。
「一体どうした?三成はどこに―――」
「三成様は、今は寝所からお出でになりませぬ。それゆえ御引き取りを」
「寝込んでいるのか!?」
家康が急きこんで聞けば、その配下は一瞬ぽかんとした顔で家康を仰ぎ見た。
その顔に、どうやら物凄く対応を間違ったらしいと気づいた家康に対して、彼は少し困ったような気配を醸し出しながら言葉を紡ぐ。
「……寝所におられるというのは、その。まこと珍しきことではありますが、つまり……」
「―――騒々しいぞ」
そこへ、切り裂くような声が飛んだ。後方からかけられた声に振り返った家康は、三成、とその声の主の名を呼ぼうとして、息を呑んだ。
回廊の薄暗がりからひたりと現れた三成は、薄手の衣を纏い、少し億劫そうな様子で佇んでいる。その着衣の首元は乱れ、全体も袖を通してただ腰でゆるく結っただけの状態だ。普段の三成からはとても考えられない乱れた姿だった。透き通る淡い色の髪はどこかしっとりと濡れた風情で、色白の顔は目元ばかりが少しだけ朱を乗せている。それが、いやに眼についた。
家康は遅ればせながら、事情を悟った。
戦場では発散しきれない熱を、それを商いとする者たちを呼びよせて処理することは多々あることだ。
だが。他ならぬこの男が。
驚きのあまり、からからに喉が干上がっていく。
「貴様、」
「は」
「もういい。戻れ。これは私が追い返す」
促された部下の男は畏まったまま、足早に去っていった。
それは季節の移ろいを告げる薫風に身を任せた時や、晴れ渡る蒼穹につい片手を伸ばしてみた時や、煌々とした月夜に淡くつよく光を放つ月輪を見上げた時に。
うつくしいと思うもの、好ましいと思うものに出会い思わず眼を細めるような瞬間に、家康はあの男のことを考える。
三成は、この風を、空を、月を、愛でることがあるだろうか?
自らのうちで問いかけて、どうにもその姿が思い描けないことに苦笑する。くだらない、そんなものに眼を向けている暇があったら秀吉様のために云々と、物静かな外見に反して強烈な口調で反論する姿まで浮かぶものだからどうしようもない。
食べることにも寝ることにも、何かを所有することにも興味がない男だ。それは季節がいくつか移り過ぎる時間を同じ場所で過ごしていれば、すぐにわかることだった。彼は喜怒哀楽のすべてをただひとりに捧げて、自身は一本の刃になろうとしているようにすら思える。
それをどうにか人間へと押し戻したくて、家康はいつも、つい口を挟まずにはいられなかった。
そんな風に思っていた家康だから、実は、三成が生身の人間だということを誰よりも忘れていたようなものだ。
それを思い知る羽目になったのは、戦と戦の合間の、平穏で何の変哲もない或る日のことだった。
豊臣軍の巨大な砦のひとつの中で、いつものように家康は三成の居室へ向かっていた。家康がこうした時間に三成の居所を訪ね始めた初めのうちこそ、何の用だ用がなければ去れ邪魔をするな、と喚いてばかりだった三成も、最近では黙殺するほうが楽だと気づいたらしい。
三成が一心に書簡仕事をする傍らで、胡坐をかいてくつろいだ家康は勝手にぽつぽつととりとめのないことを喋る。秀吉公の話や戦の話になればすぐさま決裂して終わるのは見えていたから、こうした時には出来る限り、それこそ自分が見つけた些細な喜びや綺麗な物の話を聞かせることにしていた。
三成は大概、家康などそこに存在していないという風に装って黙々と仕事を続けているが、時に我慢ができなくなるらしく痛烈な皮肉を放つ。それを拾いあげて家康が言葉を返せば、三成がまたそれに答え、いつのまにか結構長く話が続いていたりするのだ。家康がそうしたことに費やせる時間などわずかなものだったが、彼はそんな過ごし方を気にいっていた。
この日も同じく、自分が手にした短い時間で三成に他愛もない話を聞かせようと思っていた。
そうして三成の居室にほど近い、彼が与えられた区画へ足を踏み入れたところで、家康はふと違和感を覚えた。それまでゆったりと進んでいた歩みを一度止めて、かすかに首をひねる。
―――空気が、ちがう。
どこか、常とは違い、さざめくような浮足立っているような気配がした。状況としてはむしろ静まり返ったその区画は、冷えた静寂の下に密やかな囁きとうねりを孕んでいるような気がするのだ。
だが、敵意は感じられない。不穏なものではない。
先客がいるのだろうかと思いながら、ともかく家康は歩みを再開した。
普段の家康であったなら、もしかしたら、その時点で何かに勘付いていただろう。周囲のあらゆるものに対して嗅覚が鋭くなければ生き残れない環境で生きてきた家康が、たとえばその空気に混じった仄かな白粉の香りに、気付かないはずはなかった。
しかし、家康はこの相手に関しては、その可能性をすっかり忘れきっていたのだ。
そしていよいよ三成の居室へ近付いたというところで、
「恐れながら、」
背後から硬い声がかかった。
家康が振り向けば、すでに見知った三成に近しい配下の一人が、膝を折って控えていた。常であれば、根を詰めすぎる主を心配する部下たちは、主の不興を買うので口にはしないものの、家康の到来を歓ぶような気安い様子を見せる。
今日の畏まり方にはやはり普段との差を感じ取って、家康は「どうしたんだ?」と尋ねた。
「誰か先客がいるのか?それほどかからないならばワシは後からでも」
「家康様、今日はどうかこのまま御自分の居室へ御戻り下さい」
淡々と告げられた拒否に、家康は思わず眉根を寄せた。
「一体どうした?三成はどこに―――」
「三成様は、今は寝所からお出でになりませぬ。それゆえ御引き取りを」
「寝込んでいるのか!?」
家康が急きこんで聞けば、その配下は一瞬ぽかんとした顔で家康を仰ぎ見た。
その顔に、どうやら物凄く対応を間違ったらしいと気づいた家康に対して、彼は少し困ったような気配を醸し出しながら言葉を紡ぐ。
「……寝所におられるというのは、その。まこと珍しきことではありますが、つまり……」
「―――騒々しいぞ」
そこへ、切り裂くような声が飛んだ。後方からかけられた声に振り返った家康は、三成、とその声の主の名を呼ぼうとして、息を呑んだ。
回廊の薄暗がりからひたりと現れた三成は、薄手の衣を纏い、少し億劫そうな様子で佇んでいる。その着衣の首元は乱れ、全体も袖を通してただ腰でゆるく結っただけの状態だ。普段の三成からはとても考えられない乱れた姿だった。透き通る淡い色の髪はどこかしっとりと濡れた風情で、色白の顔は目元ばかりが少しだけ朱を乗せている。それが、いやに眼についた。
家康は遅ればせながら、事情を悟った。
戦場では発散しきれない熱を、それを商いとする者たちを呼びよせて処理することは多々あることだ。
だが。他ならぬこの男が。
驚きのあまり、からからに喉が干上がっていく。
「貴様、」
「は」
「もういい。戻れ。これは私が追い返す」
促された部下の男は畏まったまま、足早に去っていった。