わすれられないから
おれが知ってるおとぎばなしは、こんなふうにはじまる。
どんよりと重い、灰色の空。
湿った空気。
白い息を吐いて、緑色の丘、父さんの後についてのぼる。
かついだ袋には、今日しとめた鴨が三羽。
丘を横切る国道に、暗い景色に鮮やかな、黄色い車が止まった。
この辺りでは見かけない、外国の車だった。
この時期にはもう、雪が降るのだって珍しくないこの地方へ、どうやら普通のタイヤをはいたまま来たらしい。
車から降り立ったのは、小柄な東洋系の、若い男。
セーターにジーンズのその格好が、車にまるでそぐわない。
前を歩いていた父さんも気付いたようで、ふんと鼻で笑って首を振った。
「金の余ったアジアの坊ちゃんだ。パパの車でも、とばしてきたんだろ」
狩猟用の銃を肩にかけなおしておれに言うので、笑ってうなずいてみせた。
と、いきなりうちの猟犬が、その男のほうへと走り出す。
「−な、なんだ?ラッセル!戻って来い!ラッセル!」
牧羊犬と警察犬の雑種として生まれたラッセルは、何にそんな興奮しているのか、男めがけて、まっしぐらにかけてゆく。
どちらかというと、獲物を追いかけてゆくというよりも、レースの練習でウサギのぬいぐるみを追いかけるときの様子に似ている。
嬉しそうというか、楽しそうというか・・
「・・って、まずい!よけて!そこの人!」
突っ立って、せまりくる犬をながめる男へ怒鳴った。
むやみに噛み付くことはないが、飛びついて押し倒す勢いだ。
あの男が、犬が得意ではないとか、倒れて頭を打った、なんていう面倒は遠慮したかった。
が、驚いた顔の男は、そのまま笑顔で飛びついたラッセルを受け止めて、車へ背を打ちつけた。
前足をかけて男の顔をなめるうちの犬に舌を打った父さんが、帽子のつばを直し、諦めたようにおれに銃を渡す。
「―バカ犬め。いったいどうしたんだ?」
「わかんないよ。あの人、いい匂いでもするんじゃない?」
小声で交し合いながら、男へ近付く。
顔がよく見えるあたりで、ラッセル!と再度呼べば、どうにか男から足をおろして、きまずそうにこちらをうかがった。
「ラッセルっていう名前ですか?頭がよさそうですね」
「―ええ、まあ。こんなことは初めてで・・どこか、お怪我は?」
男の、思いのほか柔らかい声に、父さんもすこし柔らかく出ることにしたらしい。
「大丈夫です。ちょうど、こちらから声をかけようかと思っていたところで、助かりました」
「わたしたちに?」
「ええ。ちょっと距離があったし、どうやって止まってもらおうか考えていたんです。その、道に迷ってしまいまして・・そのうえ、どうも雪でも降りそうで・・、路面が凍結しそうで、このタイヤじゃまずいかなあ、と」
朝まで雨が降り続いていたのだ。どこもかしこも濡れたままだった。
「―まずいよ。絶対にすべって事故るね」
「デビー、よそから来た人なんだ。車屋を教えてあげなさい。それと、地図を・・・ああ、その、それは・・・」
帽子を押さえるように父さんが首をふり、おれもそれを見た。
男の柔らかそうなミルクティー色のセーターに、しっかりと、うちの犬が押した泥の足跡がついている。
「え?ああ、大丈夫です。こんな汚れ」
「それって、カシミア?」
デビー、と父さんに呼ばれたおれを見て、男がくすりと笑った。
・・・なんか・・男のくせに、その笑い方が似合う。
「すみません。地図も忘れてきちゃって。どこか、売ってる所はないかな?」
「あんた、モバイルフォンは?」
「あ、ケータイ?それも、持ってません」
「うそ!?どこの国から来たんだよ?」
「デビー、いいかげんにしなさい。すまないね。あんたとそう歳はかわらないだろうけど、どうにも成長しなくて」
父さんが、いつもと同じ事を言った。
「いえ。よく似た知り合いがいるので、なんだか楽しいですよ。それにきっと、おれのほうが上かな。これでも二十六なんです」
「うっそ!!」「まさか!」
親子でハモるなんて、えらくひさしぶりのことをしてしまった・・・。
知り合いのガレージまで、のろのろ運転でたどりつく。
父さんとラッセルは帰った。というか、この男から離れようとしないうちのバカ犬を引きずって帰っていった。
道案内で助手席についたおれの『ケータイ』には、事の次第をうけた母さんからの連絡がきた。
「よかったら、うちにお茶に来てください、だってよ」
「ありがとう。お気持ちだけで十分嬉しいです。って伝えておいて」
やんわりと、しかし、すぐに断られたのが気に入らなかった。
「なんだよ。女でも待たせてんの?」
男は違う、と笑った。
「―女性じゃないけど、大事な人を、迎えに行く途中なんだよ」
名前はツナだといった男は、おれの知り合いが付け替えてやったタイヤにひどく感謝し、驚いたことに「これで足りるかな」と現金を渡した。
「あんた、やっぱ金持ちなんだな」
高額な紙幣を持ち、高級な車に乗る、いいものを着た男だ。
「どうかな?まあ、否定はしないけど。でもね、基本はこういう場所が、一番落ち着くんだよなあ〜」
そう言って、近くに見つけ、この男の希望で入ったドーナツのチェーンショップの内装をみまわした。
「うそばっか。ぜんぜん太ってねえし、こういうとこの油っこいもんなんか、めったに食わねえんじゃない?」
「いや。よく抜け出して、食べに行く」
「抜け出す?どこから?」
「会社」
「・・・・」
おれは、自分のうまれたこの街から離れたことはないし、『企業』とかいう大きな会社なんて知らねえけど、そういうのって、ありなのか?
「うん。こういう味って大好き」
「こういう味を売ってる店しかないけどな」
「いいところじゃないか。家の近場で猟ができて、空気はきれいで」
「要は『田舎』ってことだろ?」
「うん。だからいいじゃないか」
「どこが?雑貨屋と郵便局ぐらいしかない街だぜ?気がついたら、友達はみんな出ていっていない。誰も帰ってこない。・・うちは、母さんが身体が弱いからおれに出て行くなって言う。―父さんも、そのまた父さんも、こっから出られずに終わってる。おれも、へたしたらきっと、このまま出られない。・・・『田舎』って、そういうことだぜ?」
煮詰まってまずいコーヒーをなめれば、相手は困ったように口を閉じた。
住む人間にしかわからない、独特の閉塞感。
こんな通りすがりの奴に話したって、どうしようもないけれど。
「―地図、出せば?」
まだ黙ったままおれを見る男に、来るまでに買ったそれを広げるようにすすめてやった。
気を取り直すように出し、ふせたそのまつげが、長い。
「あ、ここって、ここ?」
「―・・・ちがう。こっちだよ」
びっくりした。
いきなりあがった眼が、すごくでかい。
「ツナって、何人?」
「・・・なんで?」
「眼、おもしれえ色、してるから」
錯覚か、安い店内の電燈のせいか?
東洋系にしては色素の薄いその瞳が、オレンジに見えた気がする。
相手は、すこし、笑った。
「―『なにじん』か、自分でもこのごろ、よくわかんなくてさ」
地図をながめながらの返事だった。
「なんだ、そりゃ。混血?」