雨の日、わざと傘を忘れて行った
手の中の携帯が三回唸る。
帝人は慣れた手つきで、折りたたみ式のそれをパチリと鳴らした。見覚えがまったくないメールアドレスと、件名に何も書かれていない新着メール。一目であやしいと分かるそのメールに、帝人は構わず、本文を開いた。
『今日は午後から、雨だよ』
クリアキーを押してメール画面を閉じると、帝人はそのまま操作を続ける。すっかり見慣れた池袋の安アパートの天井をしばし見つめ、何事かを決めると数字キーを数回押した。ロード中の表示が消えると同時に、変更の確認画面が表示される。今月に入って、この画面を見るのはすでに二回目。
こうも慌しくメールアドレスを変えるのは、先ほどのメールの送信者のせいに他ならない。見知らぬアドレスからのメールが届くたび、帝人は自分のアドレスを変えるようにしている。こんなことをして何の意味があるのだろうと、自分でも思うが、こうすることが、何となく帝人の中で決まってしまっているのだ。
帝人はひとつ溜息をついて、カバンに携帯を放り込んだ。携帯の画面に表示されたデジタル時計はなかなか危険な時刻を示していた。このままでは始業時刻にギリギリ間に合うかどうかといったところである。慌しく玄関の鍵を閉めながら、意識するまいと思うほど意識してしまうものだという言葉を実感していた。今日は午後から90%の確立で雨。帝人が学校から帰る頃の時間には、本降りになっていると、小さな四角い箱の中で綺麗なお姉さんも言っていた。お出かけの際は、傘を忘れないようにしてください。
わざわざメールなんかで教えてくれなくたって、帝人は知っていたのに。送信先が不明のメール。今、メールアドレスを変えた帝人の携帯に、そのアドレスからの連絡は入らないだろう。――傘は、持っていかなかった。
最近の天気予報がよくあたることぐらい、帝人だって知っている。
朝、帝人が登校したとき、生徒用の通用口の傘立てからは色とりどりの柄が見えていた。みんな、傘を持ってきている。傘を持ってこなかったのは、たぶん帝人くらいだ。放課後、教室に長く居座るわけにもいかず、ふらふらと玄関先に出てきて雨宿りをしている帝人を、生徒達は彼らの傘をさして、そうと気づかないまま帰宅していった。
今日ぐらいは、天気予報が外れてくれても良かったのではないか。もしくは、今すぐ、雨が止むとか。
分厚く天を覆う灰色の雲。そこからざあざあと降り続ける雨を、軒先から暗澹とした気持ちで眺めて帝人は溜息をついた。両手の中の携帯を、再び強く握りなおす。今日、帝人の携帯は数回唸った。連絡は全て幼馴染からのもので、当然見知らぬアドレスからの連絡はない。連絡の入らない携帯の画面を開いた。もうすぐ17時になろうとしている。雨は止まない。それどころか、雨足が強くなっているようだった。向こう側から、まっすぐこちらを目指してやってくる黒い蝙蝠傘をさした人物の顔もはっきりしないほどに、雨のヴェールは厚い。もう一度溜息。
この学校の警備、どうなっているのかな。OBだからいいのかな。それでも、教室の中にまで入ってこられるのは嫌だから、ここにいて良かった。と、誰もいない静まり返った通用口をちらりと振り返って帝人は思った。
そして正面に顔を向きなおせば、全身真っ黒の服を着た成人男性が、片手に携帯、片手に傘の柄を持って、帝人をみおろしている。僅かに持ち上がったくちびるの端は、青年の表情を笑顔らしきものにうまく見せていた。女の子たちに受けのよさそうな顔をしている。騒ぎにならなくてよかった。帝人はひっそりと思う。学校というのは、全身真っ黒の恰好をした成人男性が気軽に、そう何度も足を運ぶ場所ではない。それだけでも、目立つのに、加えて、折原臨也という男はある程度の有名人なのだ。そんな彼と知り合いであることが学内に知れ渡ってしまったら――困る。困る、と帝人は思うのに、どうして。
「やあ、帝人くん」
ひろがった傘に、雨音が一瞬やわらぐ。その間隙をぬって、臨也のすっきりと耳になじみの良い声が、帝人の鼓膜に届いた。
「はい、これ」
携帯を片手に持った臨也が、傘を持っている方の手を差し出している。帝人は彼が望んでいるだろうまま、その傘を受け取り、握り締めていた自らの携帯をその手に渡した。受け取った傘は臨也の体温が柄にうつって、少しだけ生ぬるい。その温かさに驚いたことと、傘自体の意外な重さに、ぐらりと傾けそうになってしまい慌てて両手で持ち直した。そんな無様なところを見せてしまったら、後で、何とからかわれるか。
傘を手放した臨也は、場所が軒先ということもあって、少なからず雨に打たれ始めているようだった。焦って臨也へ傘を持つ手を伸ばしてみるものの、自分よりも背が高い相手の身を雨から守ることは、なかなか難しい。重い傘を持つ手に、みるみる疲労が溜まっていく。そんなふうだから、いくら帝人が必死に頑張っても、大きな蝙蝠傘では受けきれなかった雨垂れが、臨也の黒いジャケットにつつまれた両肩を濡らす。どんどん色を深めていく肩の様子を眺めているうちに、携帯が濡れないだけでもマシだと思うべきだろうか、と帝人は考えていた。
臨也はというと、帝人の考えていることにはまったく興味がないようで、手の中の携帯をずっと操作している。カチカチと、臨也の指が携帯のパネルキーを押す音が、水滴の落ちる合間に響く。
恋人でも幼馴染でもない、かといって全く知らない間柄でもない。どのカテゴリーに加えるべき存在か分からない臨也の手で、自分の携帯の中身が自由に弄られていることを知りながら、帝人は彼の好きにさせていた。操作後、帝人の手に携帯が返ってくる頃には、幾つかの連絡先と幾つかのメールが削除されているに違いない。そして臨也の連絡先が新たに登録され、臨也の携帯には、今朝方変えたばかりの帝人の連絡先が上書き保存されているに違いないのだ。
「帝人くんのメールアドレスって毎回短いよね。俺、もうちょっと長くても平気だよ。携帯打つの結構早いから。そんなに帝人くんを待たせないよ」
そう言って可笑しそうに微笑みながら、携帯を返してくれる臨也の長く白い指が、とても器用に動くことを帝人は知っていたけれど、彼の言葉には返事をしなかった。
口を開けば、いろんなことを認めてしまうことになると思ったからだ。困ることになってしまうからだ。自分が困らないように、帝人は自らに言い聞かせる。臨也さんは、こういう面倒くさいゲームみたいなやり取りが好きなのだ。帝人の、彼にとっては、取るに足らないささやかな抵抗が、お気に入りなのだ。それは、ひょっとすると明日には興味をなくしてしまうことかもしれないけれど、今は、大丈夫。
臨也の手から帝人の手へ携帯が。
帝人の手から臨也の手へ傘が移動する。
すっかり傘の柄に移ってしまった帝人の体温を、臨也が特に気にしている様子は見られなかった。ただ「じゃあね」と短く別れを告げて、蝙蝠傘が降りしきる雨の中、どこへと知れず帰っていく。
作品名:雨の日、わざと傘を忘れて行った 作家名:ねこだ