夜と朝とあなたとぼく
ふと確認した時計は午前5時過ぎを指していた。
眠気眼を擦りながらパソコンのディスプレイと睨めっこを続けて、ちょうど5時間だ。翌日が休みの日には決まって朝まで作業をこなす。大学に進学してから始めた小遣い稼ぎのためだ。
高校時代、池袋を中心に巻き起こった大きな勢力争いを経ても、僕はダラーズを諦め切れなかった。崩壊した組織はそのままに、事件が起こる以前からネット上にのみダラーズの自意識を持っていた意思を同じくする人々だけを囲い存在のない存在としてのダラーズを復活させたのは、僕が大学受験を終えたすぐ後のことだ。以後、僕はこれを利用して池袋で情報屋の真似事をしている。臨也さんには懲りないねぇとひとしきり大笑いされたけれど、反対も肯定もされなかった。彼もまた、あの事件以来変わったのだろう。否、元に戻ったというべきか。本来観測者であったはずの彼が、ダラーズを前にしてその立場を捨て去ってしまっていたことこそが、そもそも可笑しな話だったのだ。
一段落ついた作業を終らせてぐっと伸びをする。背骨がパキパキ音を立て、ジン、と鈍い痛みのような感覚が指先を弾く。ついでに見上げた空には、まだ天蓋の群青に白い星が点々と散っている様が見える。下にいくほどそれは淡くなり、紫とオレンジの滲む朝の気配を見せていた。きっと地平線はもっと綺麗だろうに。この街にはどこへ行ったってそれが見当たらない。代わりに無機質なビル群と人の気配が地面を覆って、猥雑な光が空を照らす。それは酷く疲れる光景だけれど、それ以上に光に浮かび上がる闇の深さが無尽蔵な好奇心を満たしてくれるものだ。だからどんなに酷い現実に直面したとて、僕はこの街を嫌いにはなれない。まるで臨也さんみたいだ。
「今俺のこと考えてたでしょ」
腕を挙げたまま物思いに耽っていたところに掛けられた男の声に、ビクリと肩が震えた。
恐る恐る振り返った先、先程思い描いていた黒づくめの痩身が立っている。扉を開ける音にさえ気が付かなかったと恥じ入る前に、カラッと晴れた青空のような声色で臨也さんが言う。
「眉間に皺が寄ってたよ」
「見てもいないのに適当なこと言わないで下さい」
「窓に反射して見えてた」
「……仕事のことを考えて憂鬱になってたんです」
「何?」
「今回は裏取り調査が必要なので、」
「ふうん」
「で、何の用ですか?」
気のない相槌に、僕はこの話をおしまいにした。話すほどのことでもないし、何よりこの反応からするとすでに彼は事の詳細を知っているようだ。早々に見切りを付けた僕に満足そうな笑みを向けた臨也さんは、腕組みをして壁に凭れ掛かるとそれきり口を閉ざす。とん、とん、とつま先が規則正しく玄関口のコンクリートを叩く。入ってこないということは出たいということだ。
なんだかなぁ。
立ち上がるついで、業とらしく嫌な顔をしたのに、彼はより一層爽快に笑う。
「俺の言葉を奪えるのは、君くらいのものだよ」
そうやって僕のせいにばかりしないで欲しい。
群青色が溶け始めていよいよ星の光が遠ざかる。吐く息が白くなるほど冷たい朝の冷気を切って、僕らは黙々と歩く。どこに行くんですか、という質問に、臨也さんはどこかその辺、と応えた。からかうような声音とは裏腹にその表情はまるで楽しそうじゃなかったので、僕は何も言い返せないままその背中を追う。追いついたものの隣に並ぶのは憚られて、数歩後ろに付いて行った。
そういえば、突然の訪問はいつものことだけれど、こんなに朝早くに彼と顔を合わせるのは初めてだ。夜と朝の境目には猥雑な光の洪水も地面を覆う人の気配もない。それらは僕を満たしてくれるものであるのと同時に、臨也さんのあらゆる心情を誤魔化すものでもある。だから今身一つでここにいる僕らは、実を言うととても心許ない状況だ。僕が今、目の前の男のことばかり考えているように、この人の脳裏にも僕はいるだろうか。嘘ばかり吐く口から、一つだけでも、その本心を見せてはくれないだろうか。
「帝人くん」
気が付くと数歩先にいたはずの臨也さんが目の前でこちらを見ていたものだから、顔を上げた途端その顔面にぶつかりそうになって慌てて手を伸ばす。黒いコートの胸元に突っ張った腕が臨也さんの白い手に捕まった途端、引力に導かれるように引き寄せられた。胸がぶつかって着地した先、目の前にある唇は引き結ばれている。どうにも我慢できなくなって見上げた秀麗な顔に光る褐色の瞳の物騒な輝きに、僕の口元はひとりでに綻ぶ。
出会った頃から少しだけ伸びた身長はついぞ彼を追い越すことはなかったものの、隣を盗み見るにはちょうど良い高さになっていた。普段からひっそりと盗み見ることしか出来なかったそれが今、目の前にある。緩む表情を抑えきれず、それでも視線を外せないまま瞳を凝視する僕に、臨也さんは戸惑うでもなく笑うでもなく好きにさせてくれた。
「飽きない?」
「まだ」
「あ、そう」
「きっと飽きませんよ」
「へぇ」
「だって、もう何年もずっと飽きてないんだから」
「……へぇ」
それはちょうど背後の空が明るさを増し、そのオレンジ色の光が赤い瞳の中を乱反射するように瞬いている時だった。脳みそを通さずに感じたままを告げるなんて全く僕らしくなかったのだけれど、それも仕方ないことだろう。欺瞞と嘘と欲望を詰め込んだ赤い沼地は、僕にはあまりにも魅力的だったのだ。そこに映る自分の嬉しそうな顔がそれを証明している。
こんなに曝け出しちゃって、知らないよ。
他人事のように自分に問いかけてみる。それでもやっぱりやめられなかった。それどころか、不意に近づいた臨也さんの顔を押し返すこともなく、覆われた唇の温かさにすら、僕の身体は歓喜に震えた。
腕を掴んでいたはずの彼の手はいつの間にかこちらの手を握っている。それが震えていると気付いたのか、するりと音もなく冷たい指先が絡む。撫でる様に下唇を擦る薄い唇の感触と指先のそれに感情がいっぱいいっぱいになっても、この赤い瞳から目を離せなかった。そこには叫びだしたくなるくらいの情動という、初めて見る色が浮かんでいたのだ。
「もう朝だね」
唇を離してすぐに、臨也さんはフラッと空を見上げてそう言うと、軽快な動作で踵を返す。コートの端が空気を巻き込んで広がるのを目の端に捉えながら、僕も空を仰ぐ。
星はもうすっかり光に消えて、水を入れすぎた青い色と雲に滲む赤い名残が朝を告げている。さっきの出来事がまるで夢のように現実味のないことに少しだけ不安になって、僕は背を向けていた男の隣に並ぶ。
「どうしたの」
「僕に何か言うこと、あるんじゃないですか」
「俺の言葉を奪ってるのはいつも君だよ帝人くん」
「なら返します。観念するから、言ってください」
惚けようとしたのかするりと前へ進もうとするのを、腕を掴んで阻止する。言葉を奪ったのは僕のせいだと彼は言う。僕らの間で黙秘され続けた唯一つの言葉を、確かに恐れていたかもしれない。けれど、朝と夜の間に見た、星の瞬く朝焼け空のような赤い瞳が教えてくれたのだ。僕の望み、そして彼の望みについて。
作品名:夜と朝とあなたとぼく 作家名:まじこ