さよなら、大好きな人
その日は明け方からずっと雨が降っていた。
薄明かりに包まれた城門の近くでは、夜番の兵士と朝番の兵士とが入れ違う、毎朝の光景が広がっていた。ただ、いつもならば彼らから活気を感じるのだが、雨のせいか今日はなにか物静かだ。
夜番の兵士の黒い外套と、朝番の兵士の茶色い外套とが斑になって、奇妙な色合いの地上絵図。それを窓際に腰掛けたままぼんやり眺めて、一体どれくらい経っただろうか。硝子に触れた肩は、外気の冷たさが伝わって冷たくなっている。
――偶に、明け方に目が覚めて、そのまま眠れなくなってしまう。
寝汚いとすら言われる自分が浅い眠りに悩む日が来ることがあるだなんて、昔は想像もしなかった。
何度横になったところで、寝れない日が続く。
わかっている。その原因は、目覚める寸前まで見ている悪夢のせいだ。お陰で、目覚めたときから気だるくて、睡眠の意味がない。
二度寝しようにも、一向に睡魔が訪れないから、結局、起き上がって日が昇るのを待つしかない。初めのうちは本を広げてみたけれど、面白い話もまるで砂を噛むような味気なさで、結局放り出した。
そのせいで、夕方ごろに疲れ果ててしまう。
もっとも自分は兄たちと違って、国政に関わる立場でもなければ、軍に対しても責任を持たない。十貴族のお気楽な立場を利用して、部屋に戻って仮眠を取る。
ただ、それを繰り返すと、勘のいい兄たちが自分の異変に気付いてしまう。
夜眠れないから、仮眠を取る。そう素直に言えばいいのに、言いたくはない。言えば、きっと知られてしまう。
それだけは、矜持が許さなかった。
甘えることに慣れた立場でも、決して。
溜息を吐くと、窓縁から立ち上がる。そのまま伸びると、身体の節々が痺れた。どれだけあの場所に、同じ姿勢で座っていたのだろう。すっかり冷えた身体を摩りながら、情けないと溜息を吐く。
水をいっぱいのみ干して、夜着を脱ぎ捨てる。
肌寒い室内の空気が肌を撫で、肌が粟立った。風邪でも引きかけているのも知れないと思いながら、軍服に袖を通す。
ここ数日、雨が降ったり止んだりのはっきりしない天気続きで、城内でも体調を崩すものが多いと聞く。
――兄上のところにまで病が行かなれば良いな。
主不在の血盟城を預かる偉丈夫が倒れてしまっては、ギュンターひとりで大変だろう。
意外と少数精鋭で国家運営がなされている眞魔国。基本的に、魔王は君臨さえしていればいい。
眞王が眞魔国を建国して四千年。眞王が指名してきた歴代の王は、貴族以外の者も多い。そうなれば当然、王を囲むものが国を動かす。元々、十貴族の領地は十貴族がそれぞれ統治している。魔王がすることなど、案外と少ないのだ。
ただ、今の魔王はとても行動的で、君臨よりも統治を、変革を望んだ。
丸いものを四角くしようとする魔王の意向。反対ならばまだ簡単という作業を、側近たちはその有能さをもってこなしている。でも、負担が大きすぎる。ただでさえ魔王は、ふらりとこちらの世界にやってきて、ふらりと消えて行ってしまう。それでは指揮者にも手伝いにもならない。
「……ユーリ、早く戻って来い。でなければ、兄上も、ギュンターもまた倒れてしまうぞ」
再び戻った窓際で、吐く息に曇る窓硝子に額をあてると、目を閉じる。
「そうなったらお前がまた大騒ぎして、城の中が大変になるな」
一度だけ、城内でタチの悪い風邪が流行した。それは執政官たちを直撃し、そこに戻った魔王が陣頭指揮を取って看病に当たったのだ。それはそれは大騒ぎで病人たちが休まったかどうかは怪しいところだ。しかも最後は、有利自身が風邪をもらって……。
些細なきっかけで溢れ出す、有利の思い出。
魔王の不在に慣れた眞魔国。でも、もう百日過ぎた。あと何十日待てば帰ってくる?
眞王廟の巫女たちの声にも応えはない。頼りの眞王も、とっくに異世界を渡す力を失っている。
一度は立ち消えた次期魔王の話も浮上して、今や決断を迫られるばかり。有利が帰ってくるまで待つと主張するのは、ほんの僅かだ。
息を吐けば、また硝子が曇る。
このままでは埒が明かないと身体を起こし、ヴォルフラムは外套を手に部屋を出た。
「ヴォルフラム、最近お顔の色が悪いよ」
人間の女の子の成長は早いというが、まさにその通り。日に日に背が大きくなるグレタが心配げに顔を覗き込んでくる。
「そうか? 気のせいだろう」
「違うよ。ヴォルフラムが無理してるって、みんな言ってるもん」
「みんなとは誰のことだ。ぼく以上に兄上やギュンターのほうがひどいだろう。グレタもそちらを心配したらいい」
テーカップをソーサラーに戻し、努めてそっけなく応える。その態度はグレタの癇に障ったらしい。頬を膨らませ、違うと首を振る。
「グウェンダルもギュンターもヴォルフラムも、……ユーリもみんな心配なんだから」
大きな瞳から零れ落ちそうな雫に、はっとさせられる。有利が不在で辛いのは、みんな同じこと。自分ひとりだけではないというのに、なにをひとり気落ちしているのか。
悪かったと涙を拭いてやりながら、自嘲の溜息が出る。
「ユーリは父親としての自覚が足りなさ過ぎるな。娘を泣かすとは何事だ」
自分のことは棚上げして文句を言えば、グレタが泣きながら笑みを浮かべた。
泣かせるなんて、父親失格だ。自分にも跳ね返ってくる言葉を呟いたのはいつだっただろう? ほんの数日前のような、そうでないような。ただそのときはそう思っても、結局夜になればまた物思いが蘇る。
「これも全部ユーリのせいじゃないか。いい加減にしろ、このへなちょこ!」
派手に罵って周囲の床を蹴る。もちろん周りに誰もいないのを確認して。だが、少しばかり甘かったらしい。背後で笑う気配がする。
「へなちょこ言うな。って、久しぶりに聞いたなー。懐かしい」
聞きなれたいつものトーンより、それは少し低い。それを理解する前に、身体は反応していた。
ものすごい勢いで振り返れば、そこにいるのは黒髪黒目の、おそらくコンラッドと同じぐらいの歳だろうか。渋谷有利とよく似た青年が立っている。
――夢、というにはあまりに残酷じゃないか?
言葉を忘れ、目の前の男をまじまじと見つめる。どこかしこにも、有利の破片が残っている。でも、これは有利ではない。有利であってはならない。
全力で否定する頭に、また優しい声が響く。
「ヴォルフラム? どうしたんだよ。あ、もうおれのこと忘れたかな。結構こっち、時間経っちゃったしさ。なーんて、おれの夢でなんでこんな機嫌とってんだ? でも夢でもいいや、みんな元気?」
一歩、近づく男に合わせ一歩あとずさる。
夢とはなんだ。今、自分の目の前にいる男が何を言うのだ。
「……ヴォルフ? おれだよ、渋谷有利だよ」
「嘘だ!」
「嘘って……。やっぱヴォルフラムは変わんないな」
反射的に出る否定も、有利を名乗る男はさらりと流してしまう。こんな余裕、あのへなちょこ有利ではありえない。また一歩下がる足に、慌てて男が腕を掴む。
「ちょっと待てよ。せっかく久しぶりに眞魔国の夢を見てるのに、逃げんなって」
「さっきから夢夢と、なんだ! 勝手にぼくを夢の住人にするな。不愉快だ」
薄明かりに包まれた城門の近くでは、夜番の兵士と朝番の兵士とが入れ違う、毎朝の光景が広がっていた。ただ、いつもならば彼らから活気を感じるのだが、雨のせいか今日はなにか物静かだ。
夜番の兵士の黒い外套と、朝番の兵士の茶色い外套とが斑になって、奇妙な色合いの地上絵図。それを窓際に腰掛けたままぼんやり眺めて、一体どれくらい経っただろうか。硝子に触れた肩は、外気の冷たさが伝わって冷たくなっている。
――偶に、明け方に目が覚めて、そのまま眠れなくなってしまう。
寝汚いとすら言われる自分が浅い眠りに悩む日が来ることがあるだなんて、昔は想像もしなかった。
何度横になったところで、寝れない日が続く。
わかっている。その原因は、目覚める寸前まで見ている悪夢のせいだ。お陰で、目覚めたときから気だるくて、睡眠の意味がない。
二度寝しようにも、一向に睡魔が訪れないから、結局、起き上がって日が昇るのを待つしかない。初めのうちは本を広げてみたけれど、面白い話もまるで砂を噛むような味気なさで、結局放り出した。
そのせいで、夕方ごろに疲れ果ててしまう。
もっとも自分は兄たちと違って、国政に関わる立場でもなければ、軍に対しても責任を持たない。十貴族のお気楽な立場を利用して、部屋に戻って仮眠を取る。
ただ、それを繰り返すと、勘のいい兄たちが自分の異変に気付いてしまう。
夜眠れないから、仮眠を取る。そう素直に言えばいいのに、言いたくはない。言えば、きっと知られてしまう。
それだけは、矜持が許さなかった。
甘えることに慣れた立場でも、決して。
溜息を吐くと、窓縁から立ち上がる。そのまま伸びると、身体の節々が痺れた。どれだけあの場所に、同じ姿勢で座っていたのだろう。すっかり冷えた身体を摩りながら、情けないと溜息を吐く。
水をいっぱいのみ干して、夜着を脱ぎ捨てる。
肌寒い室内の空気が肌を撫で、肌が粟立った。風邪でも引きかけているのも知れないと思いながら、軍服に袖を通す。
ここ数日、雨が降ったり止んだりのはっきりしない天気続きで、城内でも体調を崩すものが多いと聞く。
――兄上のところにまで病が行かなれば良いな。
主不在の血盟城を預かる偉丈夫が倒れてしまっては、ギュンターひとりで大変だろう。
意外と少数精鋭で国家運営がなされている眞魔国。基本的に、魔王は君臨さえしていればいい。
眞王が眞魔国を建国して四千年。眞王が指名してきた歴代の王は、貴族以外の者も多い。そうなれば当然、王を囲むものが国を動かす。元々、十貴族の領地は十貴族がそれぞれ統治している。魔王がすることなど、案外と少ないのだ。
ただ、今の魔王はとても行動的で、君臨よりも統治を、変革を望んだ。
丸いものを四角くしようとする魔王の意向。反対ならばまだ簡単という作業を、側近たちはその有能さをもってこなしている。でも、負担が大きすぎる。ただでさえ魔王は、ふらりとこちらの世界にやってきて、ふらりと消えて行ってしまう。それでは指揮者にも手伝いにもならない。
「……ユーリ、早く戻って来い。でなければ、兄上も、ギュンターもまた倒れてしまうぞ」
再び戻った窓際で、吐く息に曇る窓硝子に額をあてると、目を閉じる。
「そうなったらお前がまた大騒ぎして、城の中が大変になるな」
一度だけ、城内でタチの悪い風邪が流行した。それは執政官たちを直撃し、そこに戻った魔王が陣頭指揮を取って看病に当たったのだ。それはそれは大騒ぎで病人たちが休まったかどうかは怪しいところだ。しかも最後は、有利自身が風邪をもらって……。
些細なきっかけで溢れ出す、有利の思い出。
魔王の不在に慣れた眞魔国。でも、もう百日過ぎた。あと何十日待てば帰ってくる?
眞王廟の巫女たちの声にも応えはない。頼りの眞王も、とっくに異世界を渡す力を失っている。
一度は立ち消えた次期魔王の話も浮上して、今や決断を迫られるばかり。有利が帰ってくるまで待つと主張するのは、ほんの僅かだ。
息を吐けば、また硝子が曇る。
このままでは埒が明かないと身体を起こし、ヴォルフラムは外套を手に部屋を出た。
「ヴォルフラム、最近お顔の色が悪いよ」
人間の女の子の成長は早いというが、まさにその通り。日に日に背が大きくなるグレタが心配げに顔を覗き込んでくる。
「そうか? 気のせいだろう」
「違うよ。ヴォルフラムが無理してるって、みんな言ってるもん」
「みんなとは誰のことだ。ぼく以上に兄上やギュンターのほうがひどいだろう。グレタもそちらを心配したらいい」
テーカップをソーサラーに戻し、努めてそっけなく応える。その態度はグレタの癇に障ったらしい。頬を膨らませ、違うと首を振る。
「グウェンダルもギュンターもヴォルフラムも、……ユーリもみんな心配なんだから」
大きな瞳から零れ落ちそうな雫に、はっとさせられる。有利が不在で辛いのは、みんな同じこと。自分ひとりだけではないというのに、なにをひとり気落ちしているのか。
悪かったと涙を拭いてやりながら、自嘲の溜息が出る。
「ユーリは父親としての自覚が足りなさ過ぎるな。娘を泣かすとは何事だ」
自分のことは棚上げして文句を言えば、グレタが泣きながら笑みを浮かべた。
泣かせるなんて、父親失格だ。自分にも跳ね返ってくる言葉を呟いたのはいつだっただろう? ほんの数日前のような、そうでないような。ただそのときはそう思っても、結局夜になればまた物思いが蘇る。
「これも全部ユーリのせいじゃないか。いい加減にしろ、このへなちょこ!」
派手に罵って周囲の床を蹴る。もちろん周りに誰もいないのを確認して。だが、少しばかり甘かったらしい。背後で笑う気配がする。
「へなちょこ言うな。って、久しぶりに聞いたなー。懐かしい」
聞きなれたいつものトーンより、それは少し低い。それを理解する前に、身体は反応していた。
ものすごい勢いで振り返れば、そこにいるのは黒髪黒目の、おそらくコンラッドと同じぐらいの歳だろうか。渋谷有利とよく似た青年が立っている。
――夢、というにはあまりに残酷じゃないか?
言葉を忘れ、目の前の男をまじまじと見つめる。どこかしこにも、有利の破片が残っている。でも、これは有利ではない。有利であってはならない。
全力で否定する頭に、また優しい声が響く。
「ヴォルフラム? どうしたんだよ。あ、もうおれのこと忘れたかな。結構こっち、時間経っちゃったしさ。なーんて、おれの夢でなんでこんな機嫌とってんだ? でも夢でもいいや、みんな元気?」
一歩、近づく男に合わせ一歩あとずさる。
夢とはなんだ。今、自分の目の前にいる男が何を言うのだ。
「……ヴォルフ? おれだよ、渋谷有利だよ」
「嘘だ!」
「嘘って……。やっぱヴォルフラムは変わんないな」
反射的に出る否定も、有利を名乗る男はさらりと流してしまう。こんな余裕、あのへなちょこ有利ではありえない。また一歩下がる足に、慌てて男が腕を掴む。
「ちょっと待てよ。せっかく久しぶりに眞魔国の夢を見てるのに、逃げんなって」
「さっきから夢夢と、なんだ! 勝手にぼくを夢の住人にするな。不愉快だ」
作品名:さよなら、大好きな人 作家名:架白ぐら