Ghost
食事を済ませ、もう陽も落ちた帰り道を先に歩く背中を見つめる。
昔、互いに互いを避けていたころ何度もその背を見た。張り詰めていた拒絶は手を伸ばすことを許さなかった。
いま、そこにある背はゆるりと穏やかな空気を纏い、手を伸ばせばすぐに触れられるに違いなかった。
「……三成」
衝動的に名を呼べば、かつては名を呼ばれることすら拒絶して空中へ身を投げた相手は、何のこだわりもなく振り返る。
「何だ?」
「いや、……呼んでみただけだ」
あの世界が覆った日以来、初めのうちはぎこちなかった三成も、段々と家康と眼差しを交わし会話を紡ぐことに慣れていった。かき消えた憎しみは三成の中にひとかけらの禍根すら残さず、三成は時々、ふ、と不思議そうな顔で家康を見つめることがある。そういう時の三成が何を考えているのか、家康にも何となく察しはついた。
今もまた不思議そうな顔をした三成が、激情などかけらも存在しない澄んだ眼で家康を見返す。
「またか」
「……ああ、そうみたいだ」
そうと聞いて、三成は黙って立ち止まる。
望めば難なく応えるその姿に、家康は堪らなくなって繰り返す。
「三成」
「ああ」
「三成、」
「聞いている」
「三成、……三成。どうしてなんだ」
家康は、もう今は必要なくなったはずの、かつてと変わらぬ苦い声で問う。
「お前は言ったじゃないか。決して、何があろうと赦さないと言ったじゃないか」
三成は家康の揺らぐ眼を見つめながら、ただひとつ持っている誠実な答えを小さく告げた。
「わからない」
それは二人が幾度も繰り返した問答にひどく似ていたが、いま、三成の中には何もいないのだ。
あの頃のことを考えると三成はいつも妙な気分になった。出会った時から家康に抱いていた感情の種類は思い出せるのだが、たった数カ月前まで抱いていたそれは、今はもう靄がかったかすかな記憶でしかない。桜舞う日に自分が行ったことも、冷たい病室で叩きつけた拒絶も、初めて間近で向き合った夜に家康が苦しみ嘆いた言葉も覚えている。
だが、そのすべては柔らかな一枚の布越しにあって、どれほど顧みても、あの憎しみを己のものとして思い起こすことはできなかった。
それをぶつけた相手だけが今もはっきりと覚えていて、時折こうして確かめたがる。
もうあの自分はどこかへ消えてしまったのか、と。
「……戻ってほしいのか?」
そのくせ尋ねれば、すぐさま首を横に振るのだ。
「いや。――違う、そうじゃない。……そうじゃないんだ。ワシがずっと求めていたのが、今なんだ」
ならば、なぜそういう眼をする。
三成は心の中で密やかに問う。
普段の生活では、家康はいつも穏やかな眼をして三成を見ていた。今までのことを思えば当然の、やっと訪れた他愛ないやり取りをかわす仲に満ち足りたという眼だ。
だがたとえばこんな時、以前を思い返しながら三成と向き合う時に、家康はまれに三成に突き刺すような視線を注ぐようになった。
三成はそれに敢えて見て見ぬふりをしている。同じ強さで見返してしまえば家康がそのことに気付いてしまうだろうから、仕方なくそうしてやっている。
「よかったと言えば、」
家康は呟いた。その声は、まるで初めて会った頃の小さな少年を思い出させる、細い声だった。
「それですむのだろう。それでワシたちはずっと、これからも、普通の友としてきっと――」
言いながら、家康の腕がそろりと動く。この男らしくない恐る恐るとした動きに、三成は何も言わずに少し視線を逸らした。月を浴びて銀に光る髪に手が触れる。一度、つ、と引っ張って、そのあとに指でするりと梳く。戯れるような動きに紛れた緊張が、三成に眼を合わせることを許さない。
そうしてすっと首の後ろに回った指が、掌を広げて三成の頭をかき抱く。
そのまま抱き寄せるでもなく、少しの距離を残して三成に触れながら、家康は囁いた。
「ワシは、今のお前にとって、何なのだろうな」
友、と。
言えばいいのだろうか。三成は眼の前で、祈るように目蓋を閉じた男の顔を見つめる。
鮮やかな存在感を放つ、夏の日の太陽のように煌々と輝く、眩しい男。
かつてばけものだった三成が心底憎んで心底望んだ、唯一のもの。
「……わからない……」
呟くようにそう言えば、家康はそのまま力を込めて、己よりも細い身体を引き寄せた。
友ではない。
見慣れた顔を睫毛が触れるほどの近さで見つめながら、三成は思う。
だが、そうなることはできる。きっとそれ以上の何かになることすら、できるだろう。
それでもあの、二人きりで暗く閉じていた世界には、決して戻りはしないのだ。
それが祝福すべきことなのか、それとも惜しむべきことなのか、握った糸を手放してしまった三成にはやはりわからなかった。