Ghost
とある大学の工学科に通う家康には、長い付き合いの友人がいる。
とても世話の焼ける相手だ。
大学の一年目でありながら他学部の大学院の研究室に足繁く通うその友人は、ともすれば自分の授業はおろか食事をすることも、一日に一度は帰宅することすら忘れてしまいがちだ。
別の学部に所属しながら、この友人を強引に外へ連れ出せる数少ない相手である家康は、授業の合間や帰宅前にこの研究室へ寄るのが日課になってしまった。
友人の名を、石田三成と云う。
夏が終わり、秋が過ぎて、冬の肌寒さが染みる季節となった頃。
家康はもはや歩き慣れた廊下を進み、研究室の扉をばたんと音がするほど勢いよく開けた。
「こら三成、お前昨日も帰らなかっただろう。保護者から連絡があったぞ!」
仁王立ちして言った家康を振り向きもせず、研究室の机に資料を広げて齧りついたまま、三成は答えた。
「吉継には伝えた」
「それは今日になってからだろう?せめて事前に言っておかないとまた余計な心配を」
「―――うるさい黙れ家康、邪魔をするな」
「都合が悪くなったら口が悪くなるのはよくない癖だぞ」
「大体、吉継も心配が過ぎるのだ」
「お前相手では誰でもそうなる。最後に何かを口に入れたのはいつだ?」
いい加減振り向かない三成に業を煮やし、家康は大股で机に歩み寄ると、彼が見ていた資料を強引に奪い取った。三成が目線を鋭くする。
「おい、貴様」
「飯に行くぞ三成。食わねば返さないからな」
子供のようなやり取りだった。
そこで、くすりと空気を震わすかすかな声がした。
驚いて家康が振り返ると、山と積まれた書類に隠れていた机に、麗しい人影があった。
「半兵衛殿、もいたのですか。これは失礼をした」
自分たちのやり取りにやや気恥ずかしくなった家康が、照れて頬を掻きながら笑う。
「せめて、さん、で良いって」
楽しげに細められた眼で見られて、家康は尻込みをする。
「いや、ちょっと貴方がたには特殊な敬称をつけずにいられないというか……」
何せ伝説の主だ。嘘とも真ともわからぬ数々の話は学部を問わず伝わっている。
戸惑う家康と、そのそばで不機嫌に佇む三成を、くすくすと笑いながら微笑ましげに見る相手は、もう家康にとっても顔見知りとなっていた。どうやら家康のことを三成の友人というより保護者として認識しているらしく、自分たちの研究の手伝いに三成が根を詰めすぎた時には直接連絡まで来るようになった。
僕と秀吉がもう帰っていいよって言うと、とてもかなしそうな顔をするから。つい引き留めてしまって、ね。
慈しむ口調で伝えられたのは、昔ならば絶対に信じられなかった言葉だ。だが今の三成相手ならば、難なく信じることができる。
「おお、今日は出てくんの早エじゃねえか」
研究棟を出た途端に、快活な声がかかる。
「元親、」
「長曾我部」
同時に名を呼ばれて破顔した共通の友人は、「ったく、お前もたまには自分で出て来いってんだよ」と言いながら三成の首に腕を回し、がしがしと髪を掻き回した。やめろ、と言いながらもわりと大人しくしている三成を見て、家康は思わず笑ってしまう。元親に対して反応が甘いのは相変わらずだ。
「待ってたのか?ちょうどいい、三成もきりがいいしこれから帰ることにしたんだが、一緒に何か食べていくか」
「いや、俺はこれからコッチに用事」
そう言って元親は学内を指す。
「家康が研究棟に向かったって聞いたからよ、手強いようなら手伝ってやるかと思ってな」
「今日は半兵衛殿が背中を押してくれたからな」
集中すると梃子でも動かない三成に苦労している二人は、顔を見合わせてわざとらしい溜息をつく。それにふんと鼻を鳴らした三成は、一人でさっさと歩き始めた。
「先に行くぞ、家康」
「あ、待てって。じゃあまたな、元親」
追おうとした家康の背に、「家康」と元親が声をかける。振り向いた家康に、元親は歯を見せて笑った。
「よかったじゃねえか、なァ!」
明るい、晴れ渡る蒼天のような笑みだ。元親が、ようやく互いに絡み合った糸をほどいた二人を、心から喜んでいるのが見てとれる。家康も一拍置いて笑みを浮かべ、頷いた。
「ああ!」
ふとその眼を遠くに向けて、噛みしめるように呟く。
「よかった。……よかったんだ」
何かから解放されたかのように伸びやかになった三成は、それでもやはり家康に対して悪態はつくし、性格はきついままで己にも他人に厳しく、人付き合いに関しては価値を見出そうとせず、結局本質的には何も変わっていないとも言える。
それでもふと瞳に穏やかな色をのせて、淡く微笑むことすらみせる三成を、家康は時折眩しく思う。
同級生や研究室の人間と言葉を交わす姿も見かけるようになった。特に、半兵衛と秀吉の研究室の人間には、一年にしては大したものだと一目置かれてすらいるようだった。
穏やかな日々だ。
かつてを思えば、信じられないほどに満たされた日々だった。
しかしそんな中で、家康の胸は不意にしくりと痛む。
そのたびに思い浮かぶのはなぜか、最近の三成の静かな顔立ちではなく、爛々と燃え己を射殺さんとしていた頃の、あの鮮烈な眼なのだ。