前夜
「冷えてきたな」
唐突に腕を引かれた。そろそろ戻れという事だろう。しかし戻っても時間を持て余すだけだ。この腕を払うべきか考えあぐねる司馬懿に、曹丕は言った。
「仲達、朝まで付き合え」
冗談の色はない。付き合え、と一口に言っても意味は色々あろう。まさか伽ではないだろうが。
「…弾棋でもなさるおつもりで?」
「馬鹿を言うな」
掴まれた手を更に引かれる。気がつけば曹丕の腕の中に収まっていた。何を、と顔を上げれば頬に手が添えられる。自分のものと違い温かなそれ。
「私と共に眠れ、仲達」
手の動きは優しかった。慈しむようなそれは、司馬懿にとっては久しぶりの感覚だ。
そしてそれをこの君主から施されるのは初めてでもある。
「お前が何と言おうと、出立まで間が無かろうと、命令だ。そのような顔色の軍師に指揮は取らせん」
いつの間にか曹丕の左手は司馬懿の右手に絡み付いていた。自分同様冷徹な心と眼光を持つ彼の指先が、どうしてここまで温かいのだろう。
じわりじわりと、体温を分け与えるように曹丕は司馬懿の手を握る。
眠れない理由は解らない。久方ぶりの出陣で緊張している訳でもないし、まして孟達の如き小者に慄いている訳でもない。
しかしそれも、彼が傍にいるだけで。
「……貴方様には敵いませんな」
司馬懿は身体の力を抜いた。頬を曹丕の肩口に当てるとそっと目を閉じる。風の音が聞こえる。先程と同じくらい煩いが、寒さはもう感じなかった。
「仲達、何も此処で眠れとは言っていないぞ」
そう言いながら、曹丕の声はやはり優しかった。
出立まであとどれだけだろう。あれだけ持て余すと思っていた時間が、今はひどく惜しい気がした。