前夜
集団心理といえどもこれ以上造反者を増やさぬよう、またこれからもそういった者を許さぬよう、今回は徹底的に潰す。それが曹丕の考えである。
造反者とて兵、勿論そのような事をすれば魏とて痛くない訳もないため、実際そこまでには至らないであろう。
しかし曹丕の声、目は真剣だ。元々君主として必要以上の冷徹さは備えている。政や戦に私情を持ち込まない態度は徹底していたし、またそれを彼に教え込んだのは司馬懿であったのだから、今更嗜めるのもおかしい気もしたが。
「ふん、裏切り者は罰する。当然だろう」
じゃり、と沓が石を踏み締めた。遠くで鳥が鳴いている。雲はまだ晴れない。全ては気紛れだ。ここへ来たのも、そして、そんな事を聞いたのも。
「それが、私であったとしても?」
深い意図などない。ただの軽口のつもりだった。何を馬鹿な、と切って捨てられるであろう予想を立てている反面で、しかし司馬懿は期待もしていた。
曹丕がどのような返答をするのか。無論だ、と肯定するか。それとも、いいやお前だけは許すと否定するのか。
曹丕は司馬懿の言葉に少し黙り、それから風でやや崩れた髪を指先でなぞり上げ、目を向けた。
「お前は、ないだろう?」
幾許の揺れもない。まるで決まり切った事なのだと言いたげな口調だった。
「有り得ない状況を予測する意味など、なかろう」
つまり、それは。
曹丕の瞳は弱い月の光のせいで漆黒に見えた。混沌のようでいてどこか優しくもある、そんな色だ。
「確かにお前に叛意ありとの噂はある。が、只の噂に過ぎん」
平素より暗い色をした瞳が司馬懿を見据えた。司馬懿も曹丕を見た。目を逸らしてはいけないような気がした。
風が吹く。
木々のざわめき、空気の音。それらは曹丕の声を掻き消す程ではなかったにしろ、司馬懿は聞き取れなかった振りをした。
そこまで信頼されているのは臣として光栄であったし、純粋に嬉しくもあったが、しかし己にはその意を全て肯定できない後ろめたさも存在していたからだ。
自ら話題を振っておいて黙り込んでしまうのは罰が悪い。しかし今更聞き返すのもおかしいだろう。
曹丕は何も言わない司馬懿のそんな様子を察したのか、返事を促す真似はしなかった。
風は強くなってきている。念のため多く羽織ってきて良かったと思っていると、不意に曹丕が司馬懿の手を握った。