Have a nice Weekend
各駅電車しか止まらない駅は人の数が少なく、週末の夜とは思えないほどの静けさが駅のホームに立ち込めています。そんなホームに降り立った一人の青年。静けさの中で、階段を一段、また一段と降りる度、お気に入りのブーツが奏でる音が響き渡ります。彼の心臓の音と重るその音が、彼の興奮を高め、足取りはいっそうに早まっていきます。最後の二段をポンっと飛び越え、そのままの勢いでびたん!とパスケースを打ちつけて、マラソン選手がゴールテープに飛び込むかの様な気持ちで改札を抜け、腕時計を眺めると、デジタルの数字が丁度21:00をマークしています。慌てて傍のバス停留所に目をやると、ロータリーと呼ぶのもおこがましい様な、小さな小さな駅前のロータリーに、大きなバスがぬるりと侵入して来るところでした。バスの発車予定時刻は21時03分。三つ目の停留所、時間にして約10分程揺られていれば、降りたところはもう、目的地の目の前です。閑散とした住宅地の中で異様な雰囲気を放っている高層マンション。そのマンションの一室が、彼、食満留三郎くんが、はやる気持ちを抑えきれないほど辿り着きたい場所なのです。後方のドアのすぐそばのシートに身を沈め、再び腕時計を見ると、時刻は21時02分。食満くんはゆっくりと息を吐き、目を瞑りました。
ぷしゅう、とバスの扉が閉まる音を背中で聞きながら、食満くんはポケットから携帯電話を取り出しました。少し落ち着こうと思ってバスの中では瞑想を試みてみましたが、効果があったかどうかは定かではありません。自分が緊張していることを自覚しながら、電話帳をスライドさせて、目的地である部屋の主を探します。指でディスプレイをしゅっとタップすると、さ行へ辿り着くのは一瞬ですが、そもそもそんな検索の方法を取らなくても、【よく使う項目】に登録されているでしょう、なんて突っ込みは今の食満くんには届くはずもありません。そんなこんなで、3コール目で食満くんの電話に出た雑渡昆奈門さんは、いつもの調子で「やぁ」と言ったのでした。
玄関の扉の向こうから、くたびれたスーツ姿の雑渡さんが顔を出しました。「やぁ、いらっしゃい」そう言いながら身を引いて、食満くんを玄関の中へとそくします。緊張している食満くんの第一声はというと、少しうわずった声での「お邪魔します」です。さすがは育ちのいい男の子です。しかしこれしきのことで顔がゆるむ雑渡さんではありません。表情ひとつ変えずに、踵を返すと廊下を進み、部屋の中へと入っていきます。脱いだブーツをきちんと揃え、食満くんも雑渡さんの後を追いました。極端に物が少なく必要最低限の家具しか置かれていないリビングは、それなりに存在感のある大きさのテレビが騒々しく光を放っています。「ちょうど今さっき帰って来たんだ。だからまだ部屋が暖まってないんだけど、ごめんね」雑渡さんはそう言いながら背広を脱ぐと、乱暴にソファに放り投げました。「夕飯は?食べたの?」元々ネクタイはしていない雑渡さんは、今度は腕時計を外しながらそう言います。リビングの入口に佇んだまま、食満くんはこくりと頷きました。「食べてきた。…あんたは?」「済ませてきたよ、軽く呑むけど。君も呑むでしょ?」そこで視線を食満くんに移した雑渡さんは、首をほんの僅かだけ傾けて、「突っ立ってないでこっちおいで、座りなよ」と言いました。本人は笑ったつもりなのかもしれません。包帯で巻かれた頬が、少しだけ動いたような気がします。食満くんはすすす、とソファに近付き、雑渡さんが放り投げた背広を持ち上げると、きょろりと部屋を見回し、ダイニングチェアの背に掛けました。「…皺になるだろ?」ようやく食満くんの緊張も、少しは解けてきたようです。
二人が缶ビールで乾杯を交わしてから、幾許かの時間が経ちました。雑渡さんが仕事帰りに調達してきたおでんを、はふはふと頬張っていた食満くんは、おでんの熱が冷めてしまうほどの時が経ってなお、ようやく缶ビールの半分を飲んだところです。一方、雑渡さんはと言うと、すでに二本の缶を開け、今はウィスキーの入ったグラスを傾けています。リビングのローテーブルの上には、食い散らかしたおつまみチーズの包み紙が散乱しています。他愛もない会話を時折交わしつつ、ロードショーのなにやらハードボイルドな映画を眺めながら、のんびりとした時間が二人の間にゆるりと流れていました。
作品名:Have a nice Weekend 作家名:いちごう