八月の長電話
自宅でしかも二人きりだからささやかなものだけど、それでもパーティのときにはうんと沢山の食器が必要になる。ワイングラス、オードブルにサラダ、メインのお肉、取り皿、ナイフにフォーク、食後のケーキに紅茶。
シンクの中で水に浸された膨大な数の食器たちをひとつひとつ思い浮かべる。ちょっと無精して、明日の朝洗うことにしても、まあなんとかなるか、と思う。
頬に触れた経一の指の熱さに、思考が現実へと引き戻された。
食後のお茶も簡単な後片付けも済んで、一旦着替えようと部屋へ戻るわたしの後ろを、経一は慌ただしく追ってきたのだった。一緒に部屋へ入ると、待ちきれないといった様子でこちらに身を寄せ、わたしのワンピースの腰のリボンを軽く引いて、
「脱がしたい」
彼もわたしも酔っていた。
「だめ?」
今日は特別な日だから、こいつもいつもと違ってちゃんと襟のついたシャツを着ている。こんなのも祝祭めいていて悪くない。答えを返すかわりにシャツのボタンに手を掛けた。
そうして、お互い着ているものを部屋中に散らかしながら、ほとんど裸のような格好になっていた、その時のことである。
電話が鳴った。経一の携帯だった。
彼の携帯に、私以外の人間から電話がくることはほとんどない。普段の生活を考えれば当然のことだ。掛けてくる可能性のある数人に対して、ご丁寧に彼は一人ずつ別の着信音を設定していた。
そう頻繁に聞かない音だった。わたしでも恩師でもない誰かであることは明らかだ。
ぴぴぴぴ、飾り気のない電子音が繰り返し部屋に流れる。
わたしたちは手を止めていた。顔を見合わせた。経一が、縋るような眼をしている。
「出ないの?」
「…でも」
「出なさいよ」
経一はすこし逡巡した後、おずおずとベッドから降りて、椅子にひっかかっていたズボンのポケットから携帯を取り出した。
ぱちん、と開いて、しばし画面を見つめ、それからそっと通話ボタンを押した。
「…もしもし」
カシュクールになったワンピースの前を合わせて、リボンを結びながら、経一の丸まった背中を眺めた。いやに小さく見えた。
「ん。…うん、ちょっとデバガメだった」
随分と正直だこと。
「ん、や、ま、いいよ……うん。ありがと」
経一がかすかな声で、ぽつりぽつりと、ほとんど内容のない言葉を呟くのを聞いていた。
このふたりが話しているとたいていこうだった。ただでさえ単純な経一の言葉がさらに退化する。あれ、とかこれ、とか、そんな簡潔な表現と相槌、軽く目を合わせて頷くこと、それだけで事足りる。なにが通じているのか傍目にはわからないけど、なにかが通じていた。だから経一は言葉の体をなさない言葉をいつまでも零しつづけ、甘やかで、幸せそうだった。まるで子供返りだ――驚くべきことだけれど、いつも子供のような彼にも、まだ帰っていける子供というのがあるのだった。
ベッドから降りて、部屋の隅に投げ捨てられていたバレッタを拾う。随分とはしゃいでいたものだと苦笑する。髪を適当にまとめて、絨毯の上の大きなビーズクッションに身を預けた。
うん。そう。ええ、マジで…いや、あれだって。あれ。そう。
経一の声と、電話の向こうのおぼろげな声とが、旋律のない静かな音楽のように寝室の中を流れていた。膝をかかえて聴いた。懐かしいような、どこかかなしいような、奇妙に穏やかな気持ちになっていた。
シンクの中で水に浸された膨大な数の食器たちをひとつひとつ思い浮かべる。ちょっと無精して、明日の朝洗うことにしても、まあなんとかなるか、と思う。
頬に触れた経一の指の熱さに、思考が現実へと引き戻された。
食後のお茶も簡単な後片付けも済んで、一旦着替えようと部屋へ戻るわたしの後ろを、経一は慌ただしく追ってきたのだった。一緒に部屋へ入ると、待ちきれないといった様子でこちらに身を寄せ、わたしのワンピースの腰のリボンを軽く引いて、
「脱がしたい」
彼もわたしも酔っていた。
「だめ?」
今日は特別な日だから、こいつもいつもと違ってちゃんと襟のついたシャツを着ている。こんなのも祝祭めいていて悪くない。答えを返すかわりにシャツのボタンに手を掛けた。
そうして、お互い着ているものを部屋中に散らかしながら、ほとんど裸のような格好になっていた、その時のことである。
電話が鳴った。経一の携帯だった。
彼の携帯に、私以外の人間から電話がくることはほとんどない。普段の生活を考えれば当然のことだ。掛けてくる可能性のある数人に対して、ご丁寧に彼は一人ずつ別の着信音を設定していた。
そう頻繁に聞かない音だった。わたしでも恩師でもない誰かであることは明らかだ。
ぴぴぴぴ、飾り気のない電子音が繰り返し部屋に流れる。
わたしたちは手を止めていた。顔を見合わせた。経一が、縋るような眼をしている。
「出ないの?」
「…でも」
「出なさいよ」
経一はすこし逡巡した後、おずおずとベッドから降りて、椅子にひっかかっていたズボンのポケットから携帯を取り出した。
ぱちん、と開いて、しばし画面を見つめ、それからそっと通話ボタンを押した。
「…もしもし」
カシュクールになったワンピースの前を合わせて、リボンを結びながら、経一の丸まった背中を眺めた。いやに小さく見えた。
「ん。…うん、ちょっとデバガメだった」
随分と正直だこと。
「ん、や、ま、いいよ……うん。ありがと」
経一がかすかな声で、ぽつりぽつりと、ほとんど内容のない言葉を呟くのを聞いていた。
このふたりが話しているとたいていこうだった。ただでさえ単純な経一の言葉がさらに退化する。あれ、とかこれ、とか、そんな簡潔な表現と相槌、軽く目を合わせて頷くこと、それだけで事足りる。なにが通じているのか傍目にはわからないけど、なにかが通じていた。だから経一は言葉の体をなさない言葉をいつまでも零しつづけ、甘やかで、幸せそうだった。まるで子供返りだ――驚くべきことだけれど、いつも子供のような彼にも、まだ帰っていける子供というのがあるのだった。
ベッドから降りて、部屋の隅に投げ捨てられていたバレッタを拾う。随分とはしゃいでいたものだと苦笑する。髪を適当にまとめて、絨毯の上の大きなビーズクッションに身を預けた。
うん。そう。ええ、マジで…いや、あれだって。あれ。そう。
経一の声と、電話の向こうのおぼろげな声とが、旋律のない静かな音楽のように寝室の中を流れていた。膝をかかえて聴いた。懐かしいような、どこかかなしいような、奇妙に穏やかな気持ちになっていた。