八月の長電話
すこしうとうとし始めていたら、経一がふいにこちらを向いて、電話を差し出した。
「代わってくれって」
「わたしに?」
べつにわたしが出る必要ないじゃない、と答える間もなく、ぐいと耳元に携帯を押しつけられる。仕方なくもしもしと答えた。
「その…」
スピーカーから、いかにもきまり悪げな逸人の声がする。
「邪魔を…」
「わざわざそんなこと言うために代わったわけ?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
じゃあどうして、と尋ねると、彼は少し照れたような声で言った。
「実はさ…遅れちゃったんだけど、プレゼント、明日そっちに届くことになってるんだ」
「あら」
「悪くならないうちに、早めに受け取ってもらった方がいいと思うから…夕方の指定にしてあるんだけど、大丈夫かな」
「わかった。何なの?」
「蟹」
蟹、と思わず声に出しそうになったけど、誰かに聞かれてしまっては困るので口を噤んだ。
「蟹平気だったよね」
「平気だけど」
むしろ有難いくらいだが、少々渋いセレクションである。
「冷凍でも持つけど、新鮮なうちに食べたほうがおいしいって、三途川先生が」
「やっぱり先生のお勧め?」
「そう。すごく人気らしくて、二週間前くらいには注文したんだけど、早くても26日になりますって言われちゃって……間に合わなくて悪かったって、届いたら言っておいて」
彼の言葉を聞きながら、少しづつ、胸の中がざわつきはじめるのを感じていた。どういう意図なのだろう――ほんとうになんの意図もなかったか、意図のないふりをしたかったか、なにも期待してはいないけど一切考えなかったわけでもない、か、それとも。
経一は椅子から降りて胡坐をかき、小さいクッションを膝の上でいじっていた。こちらに注意を向けるともなく、気の抜けた横顔をしていた。
今日はこいつの誕生日で、だからわたしは色々なことを保留にして、感傷に身を任せてやさしくなってしまうのが、正しいことなのだろうか。すべてお祝いと酔いのせいにしてしまって、あしたの朝になったら、馬鹿な判断をしたものだと好きなだけ後悔すればいいのだろうか――、どうして、長かった一日の終わりに、こんな面倒なことを考えなければいけないの、と、
「あんたも来る?」
考え終わらないうちに口をついて出ていた。ああ、お酒のせいだ。
経一がぴくり、と、餌を嗅ぎつけた子犬のように身をふるわせた。
「え」
「わたしたちふたりじゃ食べ切らないでしょう。早いうちがいいんなら」
「でも」
「三途川先生も呼ぶわ」
先生を道具にしているみたいで申し訳ない、と思ったけど、それでわたしもこいつもすこしは気が軽くなるはずだった。
「いや、でも、なんか…そういうつもりではなくて、本当に」
「いいから、来れるの、来れないの?」
「……じゃあ……お邪魔させてもらって、いいかな」
「7時半にうち、で大丈夫?」
「わかった」
約束をとりつけている間、経一は瞳を爛々と輝かせてこちらを見つめていた。
「……何、なに、逸人、うち来るの?」
「内緒」
「ちょっと、なんなの、教えてよ!」
携帯を奪い取られそうになったので、簡潔に別れを告げて、逸人のくすくす笑いを聴きながら通話を切った。あーずるいずるい、俺の電話なのに、喚く経一に後ろから抱きかかえられる。
「明日になればわかるわ」
腰に回された経一の手に電話を押し戻しながら言った。
「そっかー」
経一はわたしの肩に顔を埋めて、くぐもった声で、もう一度そっか、と繰り返した。
「あー」
そうして一言唸って、それから、部屋はほんとうに静かになる。
散らかった周囲を眺めた。経一も顔を上げておなじように眺めた。酔いはだいぶ収まってきていた。脱ぎ捨てられたシャツやストッキングや下着や、わたしたちのだらしのない格好が、ふたりしてどれだけ浮足立っていたのかを物語っていた。
ほんとうに今日はお祝いで、いい日だった。いい日だったのに、どうして、とまた思う。
(どうして、こんなにしんみりした気持ちにならなきゃいけないんだろう?)
経一が、ふうと息をついて、立ち上がった。
「着替えるか」
「うん」
わたしたちはいつも通りのパジャマに着替えた。経一は喉が渇いたと言って、パチンコで取ってきたノーブランドのダイエットコークを一本開けた。わたしも一杯貰うことにした。
シンクの中のたくさんの洗い物にあらためて苦笑して、明日にしようと言い合いながら、マグカップに氷をたくさん入れ、まだ温いコーラを無理やりに冷たくして飲んだ。
日付は変わっていた。
わたしたちはもう、なにも特別ではなくていいのだった。