夜のカフェテラス
夜。
狭い一間の部屋に布団を敷いて蛍光灯の明かりを消す。
枕に頭を沈めて目をつむると、遠くで車の走る音が聞こえてくる。
耳の裏側からの人の話すような音や、草木のかすかなざわめきに体を浸して、意識を深いところへと導く。
窓から一瞬差し込んだ、何処かの光が黒いスクリーンを赤く染めた。
目蓋の裏に重力のような強い歪みを感じたと思ったら、僕は群青色をした星の明るい天涯の下にいた。
白い星が煌々と濡れた石畳を照らしている。
灰色の石造りの街並みが、ここが池袋でないことを教えていた。
辺りは雪の日のごとく音の無い世界で、湿った空気が唇を潤すと言うのに寒暖は全く感じられなかった。
はて、と僕は首を傾げる。
自分は一体何をしていたのか。何の理由で、こんな侘びしい道を一人立っていたのか。そもそも、立っていたのだろうか。歩いていたのか走っていたのか、今立ち止まったのかさえ定かでなかった。
仕方なく、僕は後ろを振り返った。
星明かりに鈍く光る石畳がずっと先まで続き、街灯のついていない道は闇へと伸びている。
僕はポケットの中を探ってみた。いつも着ている緑のジャージを叩いたり撫でたりしてみたが何も持っていなかった。
仕方なしに体の向いていた方向に歩いてみることにした。
人の気配はしなかったが、ぼんやりと遠くの方に黄色い明かりが見えていた。
どこかの店の明かりかもしれない。口を閉ざした人間のように、融通のきかなそうな石造りの家々の間を歩いて、まずはそこまで言ってみようと考える。
もしかしたら誰かいるかもしれない。
僕は空を見上げながら歩いた。星の落ちてきそうな空だ。どろりとした粘着質な光は空を爛々と照らして砂糖水の中を浮いているようだ。
強い光に目をやられながら、ぼんやりした黄色を目指す。
カフェだ。
店の暖かな照明が、外に置かれた白いテーブルを、椅子を黄色に染めていた。
そして思い出したように音が戻ってくる。
人の声、動く影、フォークやナイフが皿に接触する音。
ああ、と僕は息をついた。思わず黄色いカフェテラスに駆け寄ろうとする。
「帝人君」
頭上の星が弾けて、何か鋭いものが僕の足を地に縫い付けたような感覚に息を詰める。
「帝人君、どうして…」
そっと身じろぎするような微かな空気の振動に、僕は振り向いた。
闇に溶けるような人の形をした影は、カフェの明かりにその輪郭を浮き上がらせている。
赤い瞳が星よりも強い光を反射して輝く。光原は、その手に握られた肉厚の銀色の刃だ。
黄色い光で染められたその顔に、僕は見覚えがあった。
「折原…さん」
「帝人君、どうして」
赤い瞳から溢れる激情とはうらはらに茫洋とした声でうわ言のように呟く男を僕は知っていた。
折原臨也。新宿の情報屋であり、チャット仲間であり親友の知人である。
「あの…」
困惑して先もない言葉を紡いだ時、折原さんが悲鳴のような悲痛な声を出した。
「どうしてっ」
銀の刃が煌めく。
「あっ…あ、あ」
それは大粒の雨がコンクリートを叩く音とよく似ていた。遅れてナイフが高い音を立てて石畳に落ちた。
「こんなに」
折原さんは自身の両手を抱えてうずくまる。
いつも微笑を絶やさない顔を痛みに歪めながら、それでも僕から目を離さなかった。
「こんなに君を」
折原さんが血に濡れた手を僕へと伸ばす。
全ての動きが緩慢に見えた。にもかかわらず、僕は自分が早く荒い呼吸を繰り返すのを聞いていた。
強い血の匂いが辺り一体を包んでいる。いつの間にかカフェからは物音一つしない。
星が狂ったように一層に鳴りだす。
彼の手のひらに何か在る。
「あ、あ、あ」
視界が狭まり、明滅する。星の影が赤い塊に落ちている。
僕にはそれが何かわかる。
目の前で折原さんが自身から切り離したのを見た。
まるで供物を捧げるように折原さんはそれを僕に向けて掲げた。
「こんなに君を、愛してるのに」
その白い顔を片側だけ血に染めながら、折原さんは絞り出すようにわめいた。それは憤っているかのようであり、懇願するかのようであった。
震える手の中にあるのは、たった今切り取られた彼の右耳だ。
恐怖が引力のように僕を地面に引き込む。世界が反転し視界が歪んだ。途端に体が燃えるように痛む。
暖かな液体が、痛みに押し付けた指の間を流れていく。
強い吐き気に喉を痙攣させていると、折りたたんだ身体のすぐ先に黒い靴が見えた。
「帝人君」
涙で霞む視界で仰いだ先で赤い星が2つ輝いていた。僕を見下ろす折原さんには両耳がついていて、どうして、と僕は唇だけ動かす。
その背後に黄色いカフェテラスを見て、僕はもう一度どうして、と思う。もう唇は動かなかった。
「どうして」
また、あの茫洋とした声で折原さんが呟く。
その手には血に染まった銀のナイフが握られていた。黒い柄から滑り落ちた粒が血溜まりを作って、そのそばに耳があった。
ああ、あれは僕の耳だ、と柔らかな曲線を描く肉塊を見て思う。
熱が意識を朦朧とさせ、吐き気だけが気力の代わりであった。
「どうしてわかってくれないの」
銀の光が濃紺の空にさっと線を引いて遠ざかる。
「君のことを愛してるのに」
目の前に星が落ちてくる。銀色の尾を引いて。
朝。
僕は何度か瞬きを繰り返した。
体を起こそうと力を入れたが、驚くほど冷え切って弛緩してしまっていた。
唯一、心臓だけが痛い程に熱く鼓動を繰り返している。
「夢」
慎重に声を出して、ゆっくり寝返りをうつと、僕は布団の中で体を丸めた。
窓から差し込む薄い光が部屋を満たしている。小鳥のさえずりを少しずつ肺に取り込みながら、先ほどまで見ていた夢を思い返した。
不可解な点は夢だから整合性がとれていないのは当たり前だけれど、問題は何故あのような夢を見たかであった。
夢占い、フロイト、記憶の整理…様々な単語が僕の頭をよぎる。
煌めくナイフの切っ先と折原臨也。
やはり初対面での印象が強いのだろうか。僕は今までの彼の行動を思い返す。
関わってはいけない人。
青空の様な声の人。
刃物を握った、あの白い指。
そうこうしていくうちに、だんだんと意識が体に馴染んで仮想での事柄が霧散していく。
それでも再び目つむるのが恐ろしくて、僕は明るくなった部屋の虚空を見つめ恐怖ばかりが肌を濡らすのをじっと耐えた。
耳の奥で脈打つ血潮の音が呼吸と重なる。
……耳。
耳。
僕は先日交わした折原さんとの会話の内容を思い出す。
あれは委員会で遅くなって、すっかり日の沈んだ池袋の街を帰路についていた時の事だ。
細い路上から軽やかな足取りで、彼は僕の前にたった。
月の無い夜だった。
「今晩は、帝人君」
「こんばんは」
「ずいぶん遅いね。学校?」
「はい。…折原さんは、お仕事ですか?」
僕は好奇心で彼が出てきた路地を覗き込んだ。雑多に物の置かれた暗い空間で、それ以上でも以下でもない、よくある路地がそこにあった。
僕が折原さんに向き直ると、彼は猫のように目を細めて僕を興味深そうに見ていた。
狭い一間の部屋に布団を敷いて蛍光灯の明かりを消す。
枕に頭を沈めて目をつむると、遠くで車の走る音が聞こえてくる。
耳の裏側からの人の話すような音や、草木のかすかなざわめきに体を浸して、意識を深いところへと導く。
窓から一瞬差し込んだ、何処かの光が黒いスクリーンを赤く染めた。
目蓋の裏に重力のような強い歪みを感じたと思ったら、僕は群青色をした星の明るい天涯の下にいた。
白い星が煌々と濡れた石畳を照らしている。
灰色の石造りの街並みが、ここが池袋でないことを教えていた。
辺りは雪の日のごとく音の無い世界で、湿った空気が唇を潤すと言うのに寒暖は全く感じられなかった。
はて、と僕は首を傾げる。
自分は一体何をしていたのか。何の理由で、こんな侘びしい道を一人立っていたのか。そもそも、立っていたのだろうか。歩いていたのか走っていたのか、今立ち止まったのかさえ定かでなかった。
仕方なく、僕は後ろを振り返った。
星明かりに鈍く光る石畳がずっと先まで続き、街灯のついていない道は闇へと伸びている。
僕はポケットの中を探ってみた。いつも着ている緑のジャージを叩いたり撫でたりしてみたが何も持っていなかった。
仕方なしに体の向いていた方向に歩いてみることにした。
人の気配はしなかったが、ぼんやりと遠くの方に黄色い明かりが見えていた。
どこかの店の明かりかもしれない。口を閉ざした人間のように、融通のきかなそうな石造りの家々の間を歩いて、まずはそこまで言ってみようと考える。
もしかしたら誰かいるかもしれない。
僕は空を見上げながら歩いた。星の落ちてきそうな空だ。どろりとした粘着質な光は空を爛々と照らして砂糖水の中を浮いているようだ。
強い光に目をやられながら、ぼんやりした黄色を目指す。
カフェだ。
店の暖かな照明が、外に置かれた白いテーブルを、椅子を黄色に染めていた。
そして思い出したように音が戻ってくる。
人の声、動く影、フォークやナイフが皿に接触する音。
ああ、と僕は息をついた。思わず黄色いカフェテラスに駆け寄ろうとする。
「帝人君」
頭上の星が弾けて、何か鋭いものが僕の足を地に縫い付けたような感覚に息を詰める。
「帝人君、どうして…」
そっと身じろぎするような微かな空気の振動に、僕は振り向いた。
闇に溶けるような人の形をした影は、カフェの明かりにその輪郭を浮き上がらせている。
赤い瞳が星よりも強い光を反射して輝く。光原は、その手に握られた肉厚の銀色の刃だ。
黄色い光で染められたその顔に、僕は見覚えがあった。
「折原…さん」
「帝人君、どうして」
赤い瞳から溢れる激情とはうらはらに茫洋とした声でうわ言のように呟く男を僕は知っていた。
折原臨也。新宿の情報屋であり、チャット仲間であり親友の知人である。
「あの…」
困惑して先もない言葉を紡いだ時、折原さんが悲鳴のような悲痛な声を出した。
「どうしてっ」
銀の刃が煌めく。
「あっ…あ、あ」
それは大粒の雨がコンクリートを叩く音とよく似ていた。遅れてナイフが高い音を立てて石畳に落ちた。
「こんなに」
折原さんは自身の両手を抱えてうずくまる。
いつも微笑を絶やさない顔を痛みに歪めながら、それでも僕から目を離さなかった。
「こんなに君を」
折原さんが血に濡れた手を僕へと伸ばす。
全ての動きが緩慢に見えた。にもかかわらず、僕は自分が早く荒い呼吸を繰り返すのを聞いていた。
強い血の匂いが辺り一体を包んでいる。いつの間にかカフェからは物音一つしない。
星が狂ったように一層に鳴りだす。
彼の手のひらに何か在る。
「あ、あ、あ」
視界が狭まり、明滅する。星の影が赤い塊に落ちている。
僕にはそれが何かわかる。
目の前で折原さんが自身から切り離したのを見た。
まるで供物を捧げるように折原さんはそれを僕に向けて掲げた。
「こんなに君を、愛してるのに」
その白い顔を片側だけ血に染めながら、折原さんは絞り出すようにわめいた。それは憤っているかのようであり、懇願するかのようであった。
震える手の中にあるのは、たった今切り取られた彼の右耳だ。
恐怖が引力のように僕を地面に引き込む。世界が反転し視界が歪んだ。途端に体が燃えるように痛む。
暖かな液体が、痛みに押し付けた指の間を流れていく。
強い吐き気に喉を痙攣させていると、折りたたんだ身体のすぐ先に黒い靴が見えた。
「帝人君」
涙で霞む視界で仰いだ先で赤い星が2つ輝いていた。僕を見下ろす折原さんには両耳がついていて、どうして、と僕は唇だけ動かす。
その背後に黄色いカフェテラスを見て、僕はもう一度どうして、と思う。もう唇は動かなかった。
「どうして」
また、あの茫洋とした声で折原さんが呟く。
その手には血に染まった銀のナイフが握られていた。黒い柄から滑り落ちた粒が血溜まりを作って、そのそばに耳があった。
ああ、あれは僕の耳だ、と柔らかな曲線を描く肉塊を見て思う。
熱が意識を朦朧とさせ、吐き気だけが気力の代わりであった。
「どうしてわかってくれないの」
銀の光が濃紺の空にさっと線を引いて遠ざかる。
「君のことを愛してるのに」
目の前に星が落ちてくる。銀色の尾を引いて。
朝。
僕は何度か瞬きを繰り返した。
体を起こそうと力を入れたが、驚くほど冷え切って弛緩してしまっていた。
唯一、心臓だけが痛い程に熱く鼓動を繰り返している。
「夢」
慎重に声を出して、ゆっくり寝返りをうつと、僕は布団の中で体を丸めた。
窓から差し込む薄い光が部屋を満たしている。小鳥のさえずりを少しずつ肺に取り込みながら、先ほどまで見ていた夢を思い返した。
不可解な点は夢だから整合性がとれていないのは当たり前だけれど、問題は何故あのような夢を見たかであった。
夢占い、フロイト、記憶の整理…様々な単語が僕の頭をよぎる。
煌めくナイフの切っ先と折原臨也。
やはり初対面での印象が強いのだろうか。僕は今までの彼の行動を思い返す。
関わってはいけない人。
青空の様な声の人。
刃物を握った、あの白い指。
そうこうしていくうちに、だんだんと意識が体に馴染んで仮想での事柄が霧散していく。
それでも再び目つむるのが恐ろしくて、僕は明るくなった部屋の虚空を見つめ恐怖ばかりが肌を濡らすのをじっと耐えた。
耳の奥で脈打つ血潮の音が呼吸と重なる。
……耳。
耳。
僕は先日交わした折原さんとの会話の内容を思い出す。
あれは委員会で遅くなって、すっかり日の沈んだ池袋の街を帰路についていた時の事だ。
細い路上から軽やかな足取りで、彼は僕の前にたった。
月の無い夜だった。
「今晩は、帝人君」
「こんばんは」
「ずいぶん遅いね。学校?」
「はい。…折原さんは、お仕事ですか?」
僕は好奇心で彼が出てきた路地を覗き込んだ。雑多に物の置かれた暗い空間で、それ以上でも以下でもない、よくある路地がそこにあった。
僕が折原さんに向き直ると、彼は猫のように目を細めて僕を興味深そうに見ていた。