夜のカフェテラス
「最近物騒だからね。送っていくよ」
「えっ」
「近道して行こう。大丈夫、面倒な事になったら助けてあげるから」
でも一人でここを歩いては駄目だよ。と付け足して彼は僕の腕を掴むと出てきたばかりの路地に足を向ける。
「あのっ」
「んー?」
軽快な歩調で暗い道へと引きずりこむ折原さんを見上げて僕は声を上げる。
「腕をっ」
もつれる足で彼の横を、半ば走るように歩く。
折原さんは僕に向けて一度微笑むと、彼の手から逃れようと抵抗を見せる僕の肩を抱き寄せた。
解放された手で鞄の紐を握りしめて自分よりも高い位置にある顔を僕はそっと仰ぐ。
今にもスキップしそうな調子の折原さんの雰囲気に僕は口を噤んだ。
細く暗い路地を幾つも通り抜けていく。
もはや方向感覚はなかった。
「ああ、そうだ。さっき通った所、切り裂き魔がでた所らしいよ」
「えっ」
折原さんは思い出したように言った。思わず後ろを振り返る。
空が街を賑やかに照らす幾つもの光を反射して、ぼんやりと暗い道の先は見えない。
前を向くと、面白そうなものをみるような赤い目があった。
なんとなく気まずくなり口をついて出た言葉を放つ。
「切り裂き魔が出たら怖いですね」
歩いている道も、知った道もわからずに、ただ彼に導かれるまま歩みをすすめる事に不安を感じながらも僕は流されていく。
「……そうだね」
嫌に遅い返答が、いたずらに不安を煽った。
「耳切り事件って知ってる?」
「いいえ」
最近あった事だろうか、ダラーズの掲示板にそんな事書いてあっただろうか、などと考えながら、僕はほとんど即答していた。
それが拒絶を意味するのか、催促を意味するのかは僕自身にはわからなかった。
折原さんは、何故か目許を優しく和ませながら「ゴッホのだよ」と言った。
「ええと、あの有名なやつですか?ゴーギャンに逆上して自分の耳を切ったって言う」
「そうそれ」
僕は頭に曖昧にゴッホの自画像を思い起こした。水色の絵の具のうねる、瞳の輝いた外国の人。
「まあ、色々言われてるけどね。耳を全部ばっさりってわけじゃなくて、耳の一部を切っただけで。それを馴染みの娼婦にあげたりね。そもそもゴッホは最初、ゴーギャンを襲うつもりで刃物を持って近づいて、それに失敗して逃げてるんだよね。ところで、この、ゴッホのゴーギャン襲撃の話って、ゴーギャンの証言でしかないんだよ」
折原さんは楽しそうに手振りを付けながら話す。
「あれね、本当はゴッホが自分でやったんじゃなくて、ゴーギャンがやったって説もあるんだよ」
僕の頭の上から歌うように折原さんは言った。
「どんな気分なんだろうね。信じてた人に体を切り取られてさあ。もしくは自分を慕っていた人間を傷つけるってのは」
ね、と彼は僕に目を向けて笑う。
「はあ…」
「したことないから、わかんないよね」
誰にきかせるでもない軽い口調で折原さんは言ったが、長い指を僕の肩からその右耳へなぞるように触れるその顔は表情が抜け落ちたようだった。
僕は思わず足を止めた。彼の銀の指輪が弾みでうなじにあたり、背中をそのまま冷たいものが落ちていく。
狭くて暗くて湿った路地に僕たちは二人きりだ。
耳のそばで風が横ぎるような音を聞いている。頭の中を幾つもの選択肢が駆け抜けていく。
「帝人君」
折原さんは平坦な声で僕を呼んだ。何時もの青空のような声でなく。
空から降ってくる僅かな街の明かりが彼の端正な顔を曖昧な凹凸に仕立て上げる。
「帝人君」
再び、今度は吐息混じりに折原さんは僕を呼ぶ。
さっと路地に差し込んだ車の黄色いヘッドライトが彼の瞳を一瞬だけ照らす。苛烈な光りの余韻のように、なめらかな走行音が遠ざかっていく。
「そんなに怖がらないで」
何かを潜ませたその声が、僕には困っているように聞こえた。
これだ、と布団から起き上がって、僕は何度も頷いた。
あの後すぐに家の近くの見知った道に出て、折原さんは何故か「あとは一人で行けるね」と背を向けてさよならも言わずにどこかへ行ってしまった。
多分この事や今までの事なんかが一緒くたになって、夢に出てきたのだと結論づける。
それにしても、と僕は朝日に目を細め思う。
ヘッドライトに照らされた彼の目の、あの悲しそうな事。あんな目をするような人なのだろうか。
僕は携帯で時間を確認すると布団から出て台所で顔を洗った。
柔らかなタオルで水滴を拭いながら、悪い事をしたなと呟いた。
善意で近道を教えてくれたのに、ちょっと脅かされただけであんなに怯えては折原さんも呆れを通り越して悲しくもなるだろう。
布団をたたみながら、しかし折原さんから感じる危うさは夢の中の彼とそっくりだったなと考えた。
チャット仲間の甘楽さんはともかく、リアルでの彼は親友の知人だ。それを人は全然知らない人という。うっかり逆上されて刺されないようにしよう、と心の中で拳を握って、僕は朝食の用意を始めた。