サイハテ
記憶を、思考を、生きる意志を、アキラがアキラであったことを非Nicoleは損なっていく。それも、じわじわと時間をかけて、だ。
しかし、非Nicoleが引き起こした症状はそれだけではなかった。その症状がウィルスによるものなのか、それともこの環境によるものなのか分からない。
……一部の過去の記憶が逆に鮮明になっているというのだ。幼いころ、消されたはずの研究所での記憶を逆によみがえらせると。
辛い悪夢に耐えながら、しかし施設でアキラの血は皮肉なことに秘めていたとんでもない可能性を発露した。
ライン以外のあらゆる麻薬中毒に有効性が認められた。
要するに、脳の神経細胞を何らかの形で活性化するのだ。宿主の場合は逆にこの作用が強すぎて人間性を損なわせるまでに至らしめているのだろう。
もちろん、危険性はゼロではない。合わなければ、それこそアキラの血を直接取り込んだライン中毒患者の不適合発症のように、苦しみもがいて死ぬことになる。だが、それでも、これはとんでもない希望だった。
アキラにそのことを伝えた時の反応は……まあ、喜んでいたのだ、と思いたい。そのころには、複雑な感情を発露することができない幼児のようになってしまっていたのだから。ただ「すごい」とだけ、笑みを返されただけだった。
それからも、アキラへの治療と非Nicoleのもたらす作用との研究は同時に進められて、そして、それらしい薬の試作品が完成したころ……とうとう、アキラの自我は完全に沈んでいった。
それでも、今日この海に来てよかった。
細い骨ばった白い腕。生きることを自ら放棄してしまった肉体は、こんなにも、脆い。
ラインの中毒者とは真逆の、凪いだ澄んだ瞳。ただ虚ろに世界を映し出すだけの瞳。もう言葉を発することも、食事をすることもできない乾いた唇。
「なあ、アキラ……。お前さん、それでも今幸せか?」
そよそよと、やさしい春風が潮のにおいを運ぶ。いつだったかの渓谷で見た青空を思い出す。あの空にはかなわないかもしれないけれど、やっぱりここから見える景色は美しい。何より、この空と海の色が、少し色素の薄くなってしまったアキラの瞳の色によく似ていると思った。
……静かだ。とても。そう思ったとたんに、ふいに湧き上がる違和感。
「……まさか、な」