さよなら、神様。
さよなら、神様。
その日は、それはそれは暑い日だった。俺は、ミンミンとうるさく鳴いている蝉の声で目を覚ました。身体中に纏わりつく汗が気持ち悪くて、朝から浴場に向かう。冷たい水を浴びて冴えてきた頭で考えた。―――ああ、ついに、「今日」がやってきた。
俺の姉、エリザベータ・ヘーデルヴァーリは自慢の姉だ。優しくて、綺麗で、かわいくて、いつも笑顔で。俺のことをいつも考えてくれて、大好きで、大好きな姉。離れ離れになるなんて、考えたこともなかったんだ。ずっと、ずっと、一緒だと思ってた。それなのに。それなのに!
結婚する、と聞いたのは、星が綺麗な夜だった。
「どうしたの?姉さん。話したい大事なことって。」
「・・・あのね。今度、結婚することになったの。」
姉さんの話を聞いて、俺は持っていたグラスを落とした。ガシャンと、硝子の割れる音がする。姉さんのキャ、という小さな悲鳴が聞こえた、気がした。気がした、というのはそんなこと考える余裕もなかったからだ。指が、身体中が、震えて止まらない。目の焦点が合わない。震える唇が、ようやく言葉を紡いだ。
「だ、・・・・誰、と・・・?」
顔面蒼白で、顎がくがくな俺とは間逆に、姉さんは幸せいっぱいの笑顔で答えた。
「・・・ローデリヒさんと!」
目の前が真っ暗になって、俺はその場に倒れこんた。
目が覚めると、ベッドに寝ていた。見覚えのある天井を見て、何があったのか、思い巡らしてみた。なんだかすごく聞きたくないことを聞いたような気がする。いや、夢だ。全部夢だったのだ。辺りを見回してみると、傍に座っていたのは愛する姉さんではなく、腐れ縁の幼馴染だった。ギルベルト・バイルシュミット。姉さんと同い年の悪餓鬼で、俺の一つ歳上だ。家が近くて、親同士も仲が良かったから、小さい時から一緒に過ごしてきた。
「・・・なんで起き抜けにお前の顔見なきゃなんねーの・・」
ぽそりと呟くと、ぼーっと窓の外を見ていた腐れ縁がこちらを向いた。ああ。間抜け面。
「・・・目、覚めたのか。」
「それ以外にどう見えるんだよ。俺は今、人生で最悪に機嫌が悪いんだ。イライラさせるな、馬鹿ギル!」
低い調子で言うと、向こうもイライラしているようだった。
「機嫌悪いのはこっちも一緒だっての!まあ、お前が倒れるとは思わなかったけどな。もう大丈夫なのか?」
一応俺の身体を心配してくれているらしい。丈夫で強い姉さんと違って、俺は子供の時から病弱だった。ギルベルトは幼馴染だから、それも知っている。
「まあな。倒れたっていっても、ショック性のみてーなもんだし。問題ねーだろ。・・・お前も、聞いたのか?」
おそるおそる、聞いてみた。ここにいるということは、俺が倒れた理由も知っているということだろう。
「ああ。胸糞わりー話だぜ。まったく。あんな男女(おとこおんな)が、まさか結婚するとはな。」
俺はギルベルトの首を腕で絞めた。俺のかわいい姉さんを、男女と呼ぶなんて。許さん。
「誰が男女だって?今すぐちょんぎって、お前を女にしてやろうか?」
「うああああやめろ!ギブギブギブ!」
ギルベルトは俺の腕をばしばし叩いた。いつも通りの流れだ。馬鹿な幼馴染とのなんてことのない一時。俺は、ひゅーひゅー息をするギルベルトを見た。こいつは、どう思いながら姉さんの話を聞いたのだろう。今まで片想いし続けてきた幼馴染の結婚を、どう思うのだろうか。
「なあ、お前、なんて言ったの?」
「なにが?」
唐突に聞かれて、ギルベルトは首を横にした。俺はこいつが今までずっと姉さんに片想いしてきたことを知っている。ただ幼馴染として、何年も過ごしてきたこいつのことを知っている。告白することもできずに、毎日のように憎まれ口を叩いてきたギルベルト。こいつは馬鹿だ。大馬鹿だ。気持ちを伝えるはずが許されているというのに、今までの関係が崩れるのを恐れて、逃げ続けた。俺は姉さんに自分の気持ちを伝えることだって、許されていないというのに。いや、この気持ちを持つことでさえ、俺にとっては罪なのかもしれない。姉弟は結婚できない。そんなの、小学生だって知っている。
ギルベルトは少し口ごもってからもぞもぞと応えた。
「・・・おめでとう、って言ったよ。それしか、言えなかったっつーか。俺も、ショックだったし・・・。」
ギルベルトの答えに、俺は、はああああとわざとらしく大きな溜息をついた。こいつは大馬鹿じゃない。ウルトラスーパー超馬鹿だ。ギルベルトは俺の溜息に反論した。
「な、なんだよ!他になんて言えばよかったんだよ!」
「この・・・ヘタレ野郎が!こういうときこそ気持ちを伝えるべきなんだよ!馬鹿ギル!たとえ叶わなくても、伝えておくことがあるじゃねーか!どうせ望みは0%なんだしよ!」
俺はギルベルトの頭をはたいた。べしっといい音がする。ギルベルトは微妙に涙を滲ませながら、俺にきいっと目を剥いた。
「う、うっせ!望み0とか言うな!だいたいあの二人の間に入れると思うか!?フライパンで殴られるのがオチだ!」
確かに、姉さんとその恋人―――今はもう婚約者と言ったほうがいいのかもしれないが―――のローデリヒ・エーデルシュタインは、こちらが恥ずかしくなるほどのラブラブっぷりだった。二人は大学で知り合って恋人同士になり、着々と愛をはぐくんで、五年経った記念日に結婚の約束をしたのだった。お互いを尊重し合い、尊敬し合い、愛するという二人の関係は、まるで恋人のお手本のようなもので、好きな人に会っても憎まれ口か、その恋人の悪口しか言えない子供っぽいギルベルトには到底割って入ることのできない世界だった。勿論俺は姉さんの好きになる人ならきちんと受け入れた。事実ローデリヒさんは尊敬に値する人物だったからだ。姉さんの男を見る目は間違っていなかった。だから、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。思っていたけれどやはり実際に来てしまうとそりゃあ身体の弱い俺はショックでぶっ倒れてしまってもしょうがないのだ。
俺は姉さんが好きだった。姉としてではない。ただ一人の女性として、エリザベータ・ヘーデルヴァーリを愛していた。いた、では過去形になってしまうから言い方を変えよう。今でも愛している。いつだってその気持ちは変わっていない。好きな人ができたと言われたときも、初めてキスをしたと言われたときも。きっと俺は誰よりも姉さんに片想いしている。幼馴染のギルベルトよりも、片想いは長い。しかしこの気持ちを姉さんに伝えることはない。これからもずっと。俺は姉さんに幸せになって欲しい。だから、言わない。俺の気持ちなんて、姉さんが幸せになるには余計なものでしかないのだから。
「そういや、姉さんは?」
まだうじうじしているギルベルトの頭をべしっとはたいて聞いた。起きて近くに姉さんがいればよかったのに。いないということはどこかに出かけているのだろうか。
「ああ、俺が来るまではここにいたんだけどな。俺が来たら代わってくれって言われてよー。ま、これから結婚式まで、色々準備することあるみてーだ。」
「ふうん・・・。」
呟いて外を見た。傍にいてくれた。それが嬉しかった。そうだ。俺にはそれくらいで十分だ。それ以上を求めることは、できない。