さよなら、神様。
その日は姉さんと家で一緒に過ごす、最後の日だった。珍しく姉さんが夕食を作って待っていた。姉さんはいつも俺に料理を任せていたからだ。俺は料理を作るのが好きだったし、姉さんが俺の料理を食べて笑ってくれるのが好きだった。
「どうしたの?料理するなんて、珍しいね。」
「うん。だって、こんな風に二人で夕御飯食べるのも、もう最後になるのかなーって思ったら、お礼しなきゃって思って。」
姉さんはにこにこと笑って料理を並べた。
「気にしなくてもよかったのに・・・。それに、もう一緒に御飯食べられなくなるわけじゃないんだし。」
「そうなんだけど・・・やっぱり、ね・・・。ねえ、また御飯作ってくれる?」
「もちろん。むしろ新居に押しかけていって御飯作ってあげるよ?」
俺がにやりと笑うと、姉さんはぷっと吹き出した。
「うふふ。じゃあ、毎日そうしてもらおうかな。」
冗談だということはわかっている。新婚ラブラブ夫婦の晩餐を邪魔することなどできようか。
夕食中、姉さんは何度も手を止めた。このまま時間が止まってしまえばいい。そう、思っていたのかもしれない。俺は、そう思っていた。これで最後。信じられないけど、真実だ。お互い、何を話していいのかわからずに、押し黙ってしまう。
「姉さん。」
最初に沈黙を破ったのは、俺のほうだった。
「なあに?」
「幸せに、なってね。」
涙を堪えた。精一杯の笑顔で、笑う。姉さんは、俺と同じように涙を滲ませて、微笑んだ。ああ、綺麗。俺の、大好きな人。
「もちろんよ。この世界で誰よりも、幸せになるわ。」
そう言って笑った姉さんの顔は、今までで一番輝いていた。
「ねえ、今日は一緒に寝ない?」
そう言われた時、俺は口に入れていた歯ブラシを落とした。コン、とこぎみいい音が鳴る。今姉さんはなんて言った?歯磨き粉が口の端からこぼれる。ぼーっとしてたら姉さんが俺の口を拭いてくれた。
「なにやってるの、もう・・・手のかかる子なんだからー。」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って落ち着いて!」
俺は動揺して声を荒げる。混乱しすぎて状況がよく飲み込めない。
「?落ち着くのはあんたでしょ?」
「な、ちょ、え、待って、姉さん、今、なんて言ったの!?」
「なんてって・・・落ち着くのはあんたでしょ・・・って。」
動揺を隠せない俺とは反対に、姉さんは落ち着いて言葉を返してくる。
「違うそうじゃなくて!その前!」
「手のかかる子なんだから・・・?」
「その一個前!!」
「・・・一緒に寝ない?」
再び聞いた姉さんの言葉に俺は咳きこみ、むせた。
「げほっげほっ・・・ほ、本気で・・・言ってるの?」
俺の動揺ぶりに気付いた姉さんは、ふふんと鼻を鳴らしてにやりと微笑む。これは悪だくみをする時の顔だ。
「ふうううん、お姉ちゃんと一緒に寝るとドキドキして寝れないってこと?」
意地悪そうに言う。その通りです。
「・・・てか、姉さんは明日ローデリヒさんと結婚するんだよ?俺と一緒になんか寝たら・・・その・・・なんか、まずくない?」
そっちもまずいがこっちもまずい。明日は大切な日だというのに一睡もできなかったらどう責任をとってくれるのだろうか。言っておくが好きな人の隣でぐーすか寝られるほど、俺の神経は図太くないのだ。
「でもさ。子供の頃、よく一緒に寝たじゃない?」
「昔の話でしょ。俺たちはもういい大人だよ、姉さん。」
なんとか姉さんに諦めてもらおうと頑張る。頑張れ俺。だが、姉さんの表情がだんだんしゅんとしてきた。・・・ああ。俺はこの顔に何度騙されてきたのだろう。わかっていても、何度だってほだされてしまう。姉さんには一生敵わないと思う。
「・・・・ああもう!わかったよ!一緒に寝ればいいんだろ!」
髪の毛をぐしゃとして頭を押さえる俺を見て、姉さんはにへ、と笑った。人の気も知らないで・・・。
「ただし、部屋は一緒にするけどベッドは一緒にしないからね。二人で寝るには狭すぎるでしょ?」
「ええええーーー?」
あからさまに文句を言う姉さんを一瞥する。
「明日、ベッドが狭くて寝違えたりしたらどうするの?大事な日なんだから、ちゃんと考えて。」
「・・・・はぁーい・・・。」
少し不満そうに、けれどわかりました、と小さくつぶやいた姉さんを見て、俺は胸を撫で下ろした。よかった。最悪の事態は免れたらしい。けれど、同じ部屋で寝るのなんてもう何年ぶりだろうか。俺は平静を保っていられるのだろうか。それだけが心配だった。
姉さんは俺のベッドに入ると、ごろごろとその上で転がった。俺は押し入れから出してきた可動式の少し小さめのベッドを持ってきて、姉さんの寝ているベッドの近くに置く。タオルケットをぎゅっと掴んで、姉さんは小さな声で笑った。
「あんたの匂いがする・・・なんか、変な感じね・・・」
うふふ、と笑う姉さん見て、俺はすごく恥ずかしくなる。顔が真っ赤になったのを見られたくなくて、ふいっとそっぽを向いた。なんだこれ恥ずかしすぎる。だいたい、自分の匂いなんて嗅いだ事ないし!俺の匂いってどんな匂いだよ!姉さんが俺のベッドに寝ているのだと思うと、改めて鼓動が早くなった。ああ恥ずかしい。
「へ、変なこと言ってないで早く寝ようよ!」
もうこれ以上なにか言われたら俺の身が持たない。明日は忙しくなるんだし、早く寝るに越したことはないのだ。
「はいはい。明日は起きたら先に出かけるからね。ちゃんと朝御飯食べてから式場に来てね。」
「わかってるよ。姉さんも寝坊しないでね。俺多分起こせないし。」
明日の主役である姉さんは準備に時間がかかるということで、朝早く起きて式場に向かう予定である。俺はただの参列者だし、スーツを着るだけだから早く行かなくても構わないのだ。
「うん。じゃあまた明日ね。おやすみ。」
「おやすみ。」
しばらくすると姉さんの寝息が聞こえてきた。予定通りではあるが、やはり寝られるはずもなかった。どうにか寝ようとしても姉さんの寝息が聞こえる。俺は、はあと溜息をつくと寝返りをうった。
初めて姉さんを好きだと自覚したのは、五歳の時だ。まだ好きとか嫌いとか、よくわからなかった自分が、幼いながらも姉さんだけは大好きだと思った。身体の弱かった俺は、近所の男の子たちにしょっちゅういじめられていた。姉さんはそんな俺をいつも助けてくれた。強くて、かっこよくて、あんな風になりたいと思っていた。ある日、姉さんが一人で声を押し殺して泣いているのを見た。姉さんの涙を見るのはそれが初めてで、あんなに強い姉さんが・・・と思った。けれど違った。姉さんは女の子だ。強がってばかりの、本当はか弱い女の子。俺が、守ってあげなくちゃ、姉さんを守らなきゃ。そう、思った。それが姉さんを好きになった瞬間だった。それから、もう十年以上経つけれど、その気持ちは変わっていない。姉さんの隣に立ちたくて、身体を鍛えたりした。俺の身体は昔よりも随分丈夫になっていた。この恋は、始まった瞬間に終わっていた。言うことなど、できるはずもない。実際、姉さんの隣に立つのは俺ではなく、ローデリヒさんだ。
すやすやと眠る姉さんの傍に行く。俺の大好きな姉さんは、寝顔もかわいい。小金色に光る美しい髪を一房だけ手にとって、口付けた。