この息を奪って
松本に言ったことに嘘はなかった。伊勢と檜佐木は、ほぼ面識がない。同じ副隊長職とはいえ、自分の隊の同僚だけでいっぱいいっぱいな伊勢にとっては付き合いの範囲外だった。しかし彼に関する話はよく聞いている。松本は飲み仲間らしいし、雛森と吉良と阿散井は院時代の後輩、そのうえ院での成績の優秀さと、顔に残る傷痕、その原因となった凄惨な事件ゆえ、檜佐木はなにかと目立つ有名人だった。仕事はまじめで上司うけがよく、面倒見の良さから部下うけもいい、上下にも横にも交友関係は広いと聞く。そんな檜佐木を、伊勢はわざと避けてきたのかもしれない。自分とは相容れない存在だ、と。
だけど一度だけ。
一度だけ、過去に二人で交わした会話を、伊勢はずっと忘れられないでいたのだ。
「ナナ!あんたも飲みなさい!」
唐突に思考に割って入った言葉の意味を理解するより先に、伊勢はヘッドロックをかまされたうえ無理やり口に酒がなみなみと入った紙コップを押し付けられていた。容赦なくそそがれる冷たいアルコールと、圧迫する松本の豊かな胸。
殺される!と本気で思った。
「あーナナさんが乱ちゃんに襲われてるぅ!先輩、飲んでないで止めてくださいよぉ〜」
「乱菊さんの胸なら圧死もありえるなぁ」
「ですよねぇ〜桃はうらやましいです〜」
「俺もうらやましいです〜」
「なんで先輩もうらやましいんですか?」
「おまえとはちがう意味でだ」
酔っ払いたちの会話も遠い。伊勢は完全にそれどころではなかった。冷酒と巨乳によって生命の危機にさらされ、意識が朦朧としてきた。ああ川の向こうのお花畑で手を振るおばあちゃんが見える。というとこまできて、ようやく解放された。すると豪快にむせた。
「げほっげほっごほっ!こ、殺す気ですかほんとに!!」
「だーってスキだらけだったんだもん♪」
「だもん♪じゃない!あなたの場合お酒も巨乳も、人を死に追いやる武器なんですっ!自覚してください!」
「さらっとすげーこと言っとるな」
「ナナさん、めがねずれてますよ〜」
外野からの野次にハッとした伊勢は、すばやく平静をとり戻し酒臭い口をぬぐい眼鏡をかけ直した。隣りで松本が「アンタほんとにおもしろいわねー」とけらけら笑っているが、平然を装いつつ爽やかに無視。興奮したら相手の思う壺だ、だいたい酒のはいった松本にかなう人などいない。
呼吸を整え、再び鍋奉行という自らの役目に徹しようとする伊勢であった、が。
「ナナってさぁ」
不意打ちのようにして耳に飛び込んできた、聞き慣れた呼び名と、聞き慣れない声。勢いよく顔をあげた伊勢は、本日何度目かの衝撃をうけた。
「なんでその呼び名?」
檜佐木修兵だった。そう言いながら伊勢に顔を向けているのは。あまりにも衝撃的な出来事に、伊勢は唖然として言葉を失った。息を奪われた。この男は今、なんと言った?
「七緒だからよ。伊勢七緒、だからナナ」
固まっている伊勢を放って、松本が得意げに答える。このあだ名の名付け親は彼女だ。
檜佐木は「へぇ」、と軽く返し、
「いい名前だな」
この男、は。
伊勢はあらゆる意味で拳をぎゅっと握った。
なんてことを簡単に言い放つのだろう。
檜佐木からその言葉を聞くのは二回目だった。言葉を奪い息を奪うその一言は、以前伊勢が護廷に入って初の隊首会議のときに、初対面の檜佐木が伊勢を真正面から見据えて言ったのだ。「九番隊副隊長の檜佐木修兵です。あんた名前は?」「えーとこのたび八番隊副隊長に配属された伊勢七緒、です」「へー。いい名前だな」このたった一度のやりとりが、伊勢は、ずっと忘れられなかったのだ。
右手にコップをもち、左手に箸と器をまとめて持って、右目を縦断する傷痕と左頬を横断する刺青、目は鋭いのに不思議な色を灯し、一度ならず二度までも自分を痺れさす強烈な一言を放つ、この男。
とにかく伊勢は張り倒したくてしょうがなかった。
しかも、男はそんな伊勢にさらに追い討ちをかけ、
「俺もナナって呼んでいい?」
どーん、と、伊勢の頭に雷が落ちた。
「ダメダメ、あたしと雛だけがそう呼んでるんだから。どうしてもってゆうんなら名付け親のあたしに許可をとりなさい!」
「あんたほんとに勝手な呼び名つくんの好きだな」
「そーよ。雛、ナナ、であんたは修ね!」
「うわ。なんて傍若無人な」
「先輩、でも修ってかわいいですよー私も『しゅうちゃん』って呼んでいいですか?」
「一応先輩つけて、『しゅうちゃん先輩』って呼べば?」
「そっちのがヤダ・・・」
三人の会話は伊勢のショートした頭を素通りしていった。目の前でだんだんと増え続ける鍋の中のアクを見つめながら、これが老若男女問わずオトす檜佐木修兵の真の力か、と伊勢はただ自分の完敗を認識するだけだった。