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シーザーには兄がひとりいた。名家シルバーバーグの名に恥じぬ、大変優秀な兄だった。シーザーが物心つく頃にはすでに兄の才覚は出来上がっていて、家人からは期待され家の外ではもてはやされていた。シーザーは、兄と、彼を取り巻く家人や教師といったご機嫌取りどもに、強い反感をもって育ったが、いずれ立派な兄がこの家を継ぎ、俺は家を出てシルバーバーグの名に縛られることなく自由に暮らせるんだと思うと、それはそれは素敵なことに思えたから、ならいいやと諦めにも似た姿勢だった。


 けれどその兄はもういない。シーザーはこの広い屋敷の中でただひとりの、シルバーバーグの跡継ぎになった。
 後に史書で『英雄戦争』と名付けられた戦いから2年。シーザーは、2年前に家を出た時の約束を果たすため、再びシルバーバーグ家に戻っていた。約束というのはつまり、シルバーバーグ家を継ぐための勉学だ。
 若い頃はあまり勉強熱心といえなかったシーザーだが、こればっかりは避けられない。シーザー自身は家名や身分に執着がなくとも、シーザーごときの一存で絶やしてしまえるほど、シルバーバーグの血筋は安いものではない。そのことはさすがのシーザーでも認めないわけにはいかなかった。
 というわけで、来る日も来る日も大学に通い、家に帰ったら論文をまとめる毎日が続き、わりと疲労困憊だったシーザーは、たまの一日ぐらい休んだっていいだろう、思い切り寝て過ごしたっていいだろうと、その日は午前中いっぱい惰眠をむさぼった。執事長にも、絶対に起こすなよ起こしたら家出するからなとまるで10歳のガキみたいな言いつけをしておいたから、目を覚ましたら本当に太陽は中天をやや過ぎていた。
「んあぁ〜〜〜ひっさびさにこんだけ寝たなぁ。体が痛ぇ…」
 軽く肩をまわしながら、寝間着のままシーザーは自室を出て、階下の厨房へ向かった。
 さすがに腹がへっている。昼飯の時間も過ぎてるから、料理人は休憩中でいないかもしれないが、冷蔵庫を漁りさえすれば、なにがしか食えるものは発見できるだろう。
 厨房にはやはり人影がなかった。頭をぼりぼりかきながら、シーザーは家庭用ではない大きな冷蔵庫の扉をあけ物色を始める。
「おっ…」
 めずらしいものを見つけた。ピザまんだ。
 ラッキーとばかりにシーザーが手をのばしかけた、その時。
「それは俺のだから勝手に食うな」
 シーザーは、完全に固まった。動きも思考もすべてが強制停止した。
 その声はシーザーの後ろから投げつけられた。だがシーザーは背後を振り向くのを恐ろしいとさえ感じた。身動きひとつできない。普段は知略をこらす脳内に飛び交うのは、ただただ『なぜ』という言葉のみ。
「こんな時間に寝間着で残飯漁りとは、けっこうなご身分だな、シーザー」
 その皮肉げな口調。厨房だろうと戦場だろうと変わらぬ、淡々とした声。
 そうだ、この男はこんな声をしていたのだった。シーザーの秀でた脳はすでに状況を客観的に理解していたが、シーザーの心は現実を認めるのを拒んだ。それでも、いつまでもシーザーは寝間着姿で冷蔵庫の扉を開け片手をピザまんに伸ばしたまま固まってるわけにはいかなかった。すぐに背後から皮肉の第二波が襲ってくるのは想像に難くなかったからだ。
 だからシーザーはいっそ思いきりよく振り返った。それから、これでもかと声を張り上げた。
「なんでお前がいるんだよ!アルベルト!」
 アルベルトは厨房の入り口で、壁に体を預け立っていた。シャツにズボンの軽装だ。髪は少し伸びたかもしれない。シーザーのより暗く鈍い赤毛。
 それでもその翠色の双眸は、シーザーの記憶の中と寸分変わらぬ酷薄さでこちらに向けられていた。完全無欠の軍師、戦場を意のままに操る悪魔。世界を睥睨する瞳。
 2年前のあの英雄戦争で、シーザーはこの男と敵対した。実際の戦場で、互いの策を突きつけ合い、殺し合った。
 自分にそんなことができるとは思いもしなかった。シーザーは生まれてから一度も、この男に勝った試しがなかった。いつしか敵対することを避けた。
 それでも、シーザーは結局軍師としての道を選び、そして軍師としてのこの男と対峙した。そこには兄弟や血縁という生ぬるい感情はいっさいなかった。少なくとも、この男には。シーザーには、ありあまるほどあったそれが、この男にはなかった。
 初めて正面から向き合って、シーザーはそのことを痛感した。文字通り、胸が痛みさえした。戦場では勝ちをおさめても、歓喜はなかった。むなしさばかりが残った。
 そして男は姿を消した。死んだかと思っていた。また俺は置いていかれたんだとシーザーは絶望を味わった気がする。ずっと避けていたのに、結局は、シーザーはずっとこの男の影を追っていたのだった。でも、もう追う影をなくしてしまった。
 はずだった。
 アルベルトはまるで、昨日だってここにいて、明日も明後日もここにいるという風な顔で、つまり、ごくいつも通りの、少し眠たげな無表情で、口を開いた。
「妙なことを言う。ここは俺の生まれ育った家だと記憶しているが。それとも既にお前が継いだのか?この家はお前の資産か?」
「そんなわけないだろっ!俺が言ってんのはそうゆうことじゃなくってだな!おま、おまえは、だって、あの戦争で…」
「死んだかと思ってたなら期待にそぐえず済まなかったな。あとそれは俺のピザまんだ」
「食い意地はってんじゃねーよ!」
「お前には言われたくないが」
「なんの不都合があるってんだよ、俺が勝手に冷蔵庫のもん食って!俺んちだから、別にいいだろ!」
 瞬間、アルベルトの目がすっ…と細められた。
 シーザーは本能的にヤバイと感じた。それはアルベルトの昔からのクセで、言葉による波状攻撃が始まる印だからだ。
「それは理論として通じない。冷蔵庫に入っているそれらの食物はすべて、家主によって雇われた料理人たちが、家主とその家人の健康のために計算されつくしたレシピを作り上げ、それにのっとり食糧店から購入してきた必要物資だ。もちろん熟練の料理人たちは、少しの物資不足があっても機転を利かせ応用しあるいはレシピを作り替え、元来の計算と同等かそれ以上のものを作りだすことが可能だろう。だがそのような非常事態は、作りださずに済むならば作りださずにいるべきだ。しかも、必要物資の欠乏が、公的に正当な理由によって裏付けされた行動からもたらされた結果ならまだしも、お前の場合は完全なる私利私欲だ。朝昼夕と決められた食事時間を無視し、あまつさえ勝手に冷蔵庫をあさる。ましてやお前が家主だとしても、このような独断にまみれた行動は許されるべきじゃない。これが戦場ならばどうだ。お前が完璧に仕上げた戦略にのっとって揃えられた必要物資が、私利私欲によって奪われたら?その行動に正しさなどひとつもない。反証があれば聞こう。ただし10秒以内にだ。それ以降は受け付けない。10、9、…」
「だぁぁぁッ!!!おまえなっ、ひさびさに会った実の弟にかける言葉がそれかよ!!」
「それを言うならお前もひさびさに会った実の兄にかける言葉として適切な発言はなかったが」
「俺はおまえのそうゆうとこが嫌いなんだ!」
作品名:回帰 作家名:べいた