珈琲
「向日さん」
ふと、日吉が足を止めた。何だよ、と振り返ると、日吉の目の先にはこないだの自動販売機。
「奢ってくれるんでしょう?」
にやりと笑う日吉。そういえば、さっきそんなこと言った気がする。
馬鹿だな、俺。
「分かったよ…ちょっと待ってろ」
ポケットの中の小銭を探し、日吉に渡す。
あーあ。
「あれ、向日さんは飲まないんですか?」
「あー…、今日はいいや。あんま喉渇いてないし」
「そうですか、では遠慮なく」
日吉は小銭を自販機に入れ、ちゃりんと無機質な音が響く。
そして、日吉のまっすぐ伸びた長い指は珈琲のボタンに近付いていく。
こないだと、同じ様に。
あーあ。あーあ。
ふぅ、と白い息を吐いて俺は灰色の空を見上げる。
今日は、寒いな
がちゃんと珈琲が落ちる音が聞こえた。
これおつりです、と日吉が十円玉を八枚渡してくる。こんなの貰っておけば良いのに、日吉は変なところで律儀だ。そして俺は、日吉のそんな性格も、好きだ。
「…サンキュ」
受け取った小銭は日吉の手の温度がまだ残っていて、少しあったかい。日吉の体温。ちょっとだけ寒さが和らいだ気がするのは、きっと気のせいなんだろう。
そして日吉は、カチッとプルタブを開けた。
シュワッ
あれ、この音。
何だか、妙に耳に馴染む音だ。今まで俺が聞いてきた音の中で、特別鮮明に耳に残っている。
当たり前だった。だってこれは、俺が好きな炭酸飲料特有の、泡が弾ける音だ。小さい頃から、数え切れない位、聞いてきた音。
まっすぐ、多分学校を出てから初めて、まっすぐに日吉を見た。
相変わらずの無表情で黙々とメロンソーダを飲む日吉を、見た。
一度も缶から口を離さず、ごくごくとメロンソーダを飲む日吉。それに合わせて、日吉の細い首に浮き出た喉仏が上下する。
ああ、そんなに勢いよく飲んだら。
「…う」
日吉は咄嗟に口を押さえたが、少し遅くて、けぷ、という可愛らしい音が漏れてしまった。
その途端、真っ赤になる日吉。
日吉もするんだ、あれ。
「…一気に飲んだら、誰でもそうなるよ」
「…初めて飲んだんだから、知りませんよそんなこと」
真っ赤になったまま、ぼそぼそと言う日吉が可愛くて可愛くて、俺はさっきまでのもやもやした気持ちが、弾けて消えていくのを感じた。
「初めて飲んだんだ?感想は?げっぷ以外で」
「もう忘れて下さい…」
恥ずかしそうに顔を伏せる日吉。そしてぼそっと、
「…甘いですね」
と言った。
まあ、そうだろうな。そんなこと分かり切ってるのに、何でわざわざ飲むのかな。
その答を、俺はよく知っていた。ただずっと、気付かないふりをしていただけ。だから俺は、いつだってこの一つ年下の恋人に適わない。
顔を伏せたまま、でも、と日吉が続けた。
「不味くはないですね」
日吉は無口で自分の感情をあまり表に出さないから、何を考えているのか分からないことも多い。多分俺は、日吉の知らないところ、たくさんあると思う。
ただ一つ言えるのは、日吉は俺が思っていたよりもずっと、周りの人間の感情に聡い奴だということだ。
いつも無表情だけど、言葉は生意気だけど、とても優しい奴なんだ、俺の恋人は。
「日吉!」
「はい」
「好き!」
「はいはい、知ってますよ」
いきなりでかい声で何言ってんですか、と小さく笑う日吉。その綺麗な笑顔を見る為に、日吉と身長が十センチ以上違う俺は、少し彼を見上げなければならない。
俺と日吉。性格も容姿も雰囲気も、全然違う。お似合いのふたり、なんてお世辞にも言えないのは、誰よりも俺がよく知っている。
でも、日吉はそんな俺のことを好きだと言う。こんなに大人っぽくて格好良くて優しい日吉が、俺のことを好きだと言ってくれた。
だから、良いんだ。
俺は綺麗じゃない。大人っぽくもない。
きっとこれからも、つまらないことでうじうじ悩んだり、醜い嫉妬をする自分に嫌になったりするんだろう。日吉と付き合わなければ見ることのなかった自分の嫌な部分、たくさん見るんだろう。
でも、それはきっと、それで良いんだ。だってそうじゃなかったら、日吉と手を繋いだ時の気恥ずかしさは、日吉とキスをした時の切なさは、今の俺のこの感情は、泣きたくなるような、叫びたくなるようなこの感情は、何だと言うのだろうか。俺は綺麗でも大人っぽくもないけど、そこまで弱くはない。
だから俺はきっと、これからも日吉を好きでいられる。
「向日さん」
「何?」
「これまだ残ってるんで、良かったら飲んじゃって下さい」
「おー、サンキュ」
日吉が差し出したアルミ缶には、まだ少しメロンソーダが残っていて、俺は一気にそれを飲み干す。
それは確かにこの寒い日に飲むには冷た過ぎる気がしたけど、でもとても甘くて美味しくて、ああやっぱり俺は珈琲よりこっちが好きだな、と思った。