jumper
Because I love you
死闘を繰り広げた戦士がその前と比べて飛躍的に力を上げるというのは、戦いというものから遠ざかった現代日本においては一部の少年漫画かゲームの中の話である。
しかし自分のバトルをゲームと同列にされることを嫌う少年のその力の伸びというのは、そんな感じの表現が相応しいといわれていて、本人も特に否定するようなことは言っていない。
死闘。
と称するには、それはいささか実を欠いた感のある対決だったが、実際かかっていた命の重さは途方もない。あの夏、誰かが止めなければ世界は滅んでいた、滅ぼされていた。無邪気な、知りたいという思いで生きるものによって。
キング・カズマは直接にラブマシーンを止めたわけたでもないのだけれど、というか彼だけが止めたわけではないのだけれど、騒動が去った時OMCという公式の舞台に残っていたのは彼だけだった。
とにかく、ラブマシーンとの戦いを経てキングはさらに強くなった、というのは専らの評判だったし、恐らく事実でもあった。どこがどう変わったというのではない。ただ、経験することによって得た何かが、キングをさらに強くした。下々にわかるのは、それだけだ。そしてそれだけでも特に問題はなくて、天井知らずに伸びていく寡黙な戦士が強く勝ち抜いていく興奮が全てなのだった。
ヘッドフォンを外して首に引っ掛け、佳主馬はペットボトルを傾けた。面倒だし蓋をしておけば倒れても被害はないしで、とりあえずログイン中の供はペットボトルと決まっている。中身はその時により勿論違うのだけれど。
「……、…っ」
指が勝手にキーボードの上を舞っていて、それが本当に無意識の動きだったもので、気づいた時には誰もいない室内で佳主馬は呆然とした。というかむしろ赤くなった。
指が追っていたのは、K、O、I、S、O、K、E、N、J、I…いつの時代の少女マンガだ。PCラックに突っ伏して、佳主馬はしばし動悸息切れと戦った。
――世間は誤解をしている。別に訂正するつもりはないけれど。
確かにキングは強くなった。強くなっている、はずだ。そこには勿論、世の人が想像するように、ラブマシーンの一件が無関係ではない。だがしかし。だがしかし、だ。別にそのバトル経験がキングを強くしたのではないのだということが、プレイヤーである佳主馬自身にはよくわかっていた。キング・カズマが強くなったのは、そういうことではなくて、もっと精神的なものが理由にあった。
画面から音がした。今はOMCにエントリーしているわけではない。というかそれはさっき終わった。今は、人を待っているところ。
「ごめん、おまたせっ」
人の良さそうな声にぴこっと顔を上げれば、私的座標にはリス、らしい生き物を模したアバターがいた。ぴこぴこと短い手足を動かし、汗を飛ばしているのは「お待たせ」という台詞が理由。
「別に、待ってないし」
打ち込む台詞は声に出てしまっているが、そんなことは相手にもわからないだろう。
「そう? でもごめんね」
吹き出しの下でぺこりと頭を下げる丸い体。こんなの実際にいたら突いて倒したいなあ、という欲求は、佳主馬の手を無意識に動かした。かくして、画面内では、キング・カズマがリスをつついて転がしていた。
案の定、ころんころんと転がっていくリスを、ぴょん、という軽い一っとびで追いついて掬い上げる。わああ、と転がっていたケンジは、担ぎ上げられたうさぎの肩の上でぷるぷると頭を振った後、はっ、と顔を上げた。
「うわあ」
また慌てて手足を振る。なんだか子供向けのアニメに出てきそうなコミカルな動きに、モニタのこちらで佳主馬が笑う。
「もう、佳主馬くんてば」
頼りなげな笑い方が見えてきそうな口調に、佳主馬は胸を押さえた。重傷だ。この上なく。
上田から戻る頃には個人的なアドレスを交換していた。実際に会える距離ではなかったけれど、OZがある。OZは佳主馬が健二にコンタクトをとることを容易にしてくれる。
佳主馬を強くしたのは、ラブマとの一戦、ではない。彼を強くしたのは、この、リスのアバターをもつ年上の少年だった。
「どうして数学が好きになったか?」
話題は豊富ではなかった。どうしても年齢も環境も違えば、それは仕方のないことだ。しかしそれでも佳主馬はめげなかった。健二のことは何でも知りたかったから、何でもきいた。数学について聞いたのも、そのひとつ。健二は数学が好きだから、きっと、気負いなく話してくれるだろうと思って。
もらったマイクを半ば無理やり送りつけて(そして取り付けさせて)本当によかった、と思いながら、佳主馬は健二の声に耳を澄ませる。
「佳主馬くんは、数学ってどんなものだと思う?」
答えの前に質問がきて、佳主馬は瞬きした。こういうところが、健二はちょっと他の人と違っていた。たとえば数学オリンピックの日本代表になり、そこねたくらいの人間なわけだから、単純に「得意だから」とか、そんな理由が返って来てもそんなにおかしくはないと思うのに。しかし、健二はそういうことは言わない。この質問も、彼が自分の考えをきちんと話すために必要なアプローチなのだろう。だから佳主馬もきちんと答える。
「どんなって…関数とか。なんか、証明とか。そういう?」
「うん。そうだよね。でも、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃない?」
数学といえば学校で習うあれだろう。だとすれば、計算や証明、確率統計やら微分積分やらまあ色々あるが、だがしかし一般にいってそういった学問のことである。
それを、彼は、「それだけではない」という。佳主馬は片膝を立てた格好で聞き入る。
「数学って別に、電卓とかパソコンとか、昔だったらそろばんとか…そういう計算するっていう技術だけじゃなくて、もっと違って、何かの規則性をもって変化する数字があったりとか、そういう発見がいっぱいあってね、もっとね、面白いものなんだって思ったんだ。それからかな。好きになったのって」
わかっている。今健二は数学の話をしている。好きになったのは数学である。
だが佳主馬はそれどころではない。PCの前無言でごろごろ転がった。もしも聖美が見たらわが子を案じるに違いない。
「やっぱり変かなあ」
照れたように頭をかくのはリスだが、佳主馬の目にはきちんと、照れくさそうに頭をかく健二の顔が映っている(それを人は妄想という)。
「そんなことないと思う」
顔や姿勢はともかく、モニタ上ではウサギが相変わらずきりりとした顔でいるし、マイクを通す声は普通だったはずだ。
「そう? そうかなあ、でもよく変だっていわれるよ」
「そんなことないってば。…お兄さんは僕より他の人を信じるっていうの?」
ちょっとだけ拗ねたように言ってみる。言ってから「何言ってるんだ僕のアホー!」と少しだけ思ったが、言ってしまったものは取り返しがつかない。それにちょっと気にはなる。どういう返答があるか。
「そんなことないよ! 佳主馬君がそう言ってくれるのは、嬉しいな!」
モニタでぴょんぴょんとリスが跳ねている。リアル佳主馬は鼻を押さえて転がった。聖美が見たら以下略。
「佳主馬君は、数学って好き? やっぱり少林寺の方が好きかな、ああ、OMCもあるね…」