遭難
『遭難』
甘い匂いだ。
閉じていた瞼を空けると明るすぎる蛍光灯の光が目に刺さる。
反射でじんわり浮かんできた涙を拭う事さえも億劫で、そのままにしておいたら右目から一つ流れ落ちた。一分の感情も篭っていないその涙は頬の曲線を伝って黒いソファの上に小さな水滴となった。
先程、流し込んで情景を脳内で構築した言葉達が、今は鳴りを潜めて彼を認識する作業へと移る。
彼の気配には入室してきた時から、いや既にこの部屋に向かう前から気付いていたが、わざわざ叩き返すように反応を取らなくてもよいと感じたのは、彼と会うのがあまりに久しぶりであったからか。
向かいのソファに座って口許に淡い笑みを湛えている、家庭教師と言う名の見知らぬ他人。素性もろくに知らない来訪者。彼は少し前に雲雀にあらゆる場面での敵のひねりつぶし方を教え、幾つかの観念的な言葉を与えた。
ただそれだけである。
「不貞寝か?」
「ちがう」
雲雀が短い言葉で否定して、起き上がることもせず彼の好きなように立ち回らせる。
「いい本を読んだらその余韻に浸りたくならない?」
独り言のつもりで相手に放ったのだが、そんな投げっ放しの言葉も律義に受け、相手は笑い顔を作ったように見えた。
はっきりと認識出来ないのはぼやけた視界のせいで、辛うじて彼がどんな感情を表層に表しているのかは判らない。ただ経験に基づいて、笑っていると判断したにすぎず、その甘ったるい判断に自分でも違和感を感じた。たった10日あまりしか顔をつき合わせていなかったはずなのに、どういうことだろうか。
またの予兆のない訪れを静かに受け入れて、自分と同じ部屋に居ることを許す。雲雀がもつ、ごく狭い人との繋がりの環の中でこの関係だけ極めて異質だと、雲雀自身もうっすら感じていた。
「何の本だ?」
先程雲雀が読破したばかりの文庫本を手に取り、ぱらばらとめくり、時折手を止めては眉根を寄せてページをじっと見る。
コミュニケーションは難なく行えるほど日本語の堪能な彼だが、果たしてリーディングの力はいかほどだろうか。
まじまじと見つめ時折首を傾げる彼に口許をうっすら緩めながら、気怠さと熱っぽさが合わさったようないつも感じる不思議な感覚に晒されていた。これが雲雀の物語を読む作業の内の一つだった。飲み込んだ言葉を脳内で一つ一つ処理し認識の泉に沈め、読後感と余韻に浸る。そう彼に伝えたのは嘘ではないが真実の半分だ。半分の嘘を誤魔化すかのごとく随分なタイムラグのある返事を返す。
「雪がいっぱい降るとこの本」
「なんだそれ、旅行記?」
「ちがう」
今の雲雀の様子は平素と比べたら怠惰なものにみえるのだろうか。足を投げ出して寝転がり大して重くはない体重をソファに沈める。普段学校と街の風紀を保つ為にせわしなく働き躍動する体は今は重石をつけたように動きが鈍くなっていた。
風紀の仕事に合間を見つけ、文字の世界に潜り込むことは雲雀にとって珍しいことではなく、好きか嫌いかに分ければ前者にあたるものだ。
感情移入や物語に没頭するというよりは一人きりの世界に、文字が頭にゆっくりと沈み込んでいっては心地よい気怠さを生み出す感覚が好きなのだ。何度も文章を反復しては真意を問う前に響きの美しさを愛で、描かれた情景を頭の中で形作る。
実際に雲雀はこの小説の地、冬には雪に埋もれてしまう里には行った事がなかったが、なぜかそこのしんとした空気と人の生きた息が作り出すほんのりとしたあたたかさを想像することは他愛なくできた。
日本海に面する昔からの湯治の町。白くなる夜の底。冬の空気に光る天の川。この街よりよほど人の出入りが激しく厳しい冬には雪だけに支配されてしまうのだろう、並盛だって自分には充分に美しく素晴らしい場所だがこの世には情緒と景観の美しさの両方に恵まれた街が沢山あることは知っていた。
文中では女の美しさにも何遍も筆舌を尽くしていたが、雲雀にはそれは共感できるものはなく、ただ流れて行く人間模様の一つとして読み流していた。
それはまだ女の美しさも肌の重なり合いから伝わる人間の繋がりを知らぬということの表れでもあるのだが、雲雀自身にその自覚はなく、自分に興味を提示してくれる人間、つまり退屈のかわりに戦う楽しさをくれる人間以外には自らの感情の機微などないと思っていた。だから、好意を寄せても男の哀れみを跳ね除ける女や、女の予言どおりに狂うはかない少女も、物語を通じての言葉は聞き流す知らない音楽のように聞こえる。色恋に関する語彙は自分の中にもとから存在しないからだろうと、15の少年はそう納得していた。
それでもこの物語は雲雀の心を厚く降り積もる雪の真っ白な色に染め上げ、すこしの閉塞感を与えた。文字だけの世界で読む者にこんな感覚と重さを伴う後味をもたらす、やはりこの本はいい本なのだと雲雀は評を下す。
テーブル一つ隔てた所に座るこの男は匂いと言葉以外では雲雀の空間に浸食することはない。言葉だって答えられる範囲のものを選んでいるんだろう。彼が醸し出す温和な空気の中、普段その恩恵に預かっているであろう草食動物も居らず自分だけがそれを吸って酸素を取り入れている。
頭の内側に鈍痛があり、彼から感じる外的情報を追いきれていない。頭の処理能力が追いついてないと言うよりむしろ働きが過多になっているのだろう。
内側からの痛みは体に掛かる重さになって、雲雀の動きを鈍くさせる。その証拠に先程から向かいでどっかりと座るこの男への注意も、この男の目的も、問わぬままだ。随分早いペースで頁が捲られるのを見ながら、彼がどんなシーンで何を思いどんな言葉に目を止めるのかが気になってついつい視点を彼へと宛ててしまう。
小さな本のページを一枚一枚めくる大きな手。俯いて一層目立つ長い睫毛。何の表情もない白く滑らかそうな頬。もし、彼を表す美しい言葉を並べ立てたらきりがないように思えて、焦点も合わせきれずにぼんやりとまだソファに横たわりながら彼を眺めていた。
だんだんと穏やかな金が純白を浸食して行く。彼の金色の髪は優しいきらめきで、もしも雲雀が筆を握る癖を持っていたらどのように彼を形作るだろうか、と空想の筆を走らせて見る。もしも、での仮定でものを語るなどらしくもない。
しかし緑と茶の割合が光の加減でくるくる変わる文字を追う瞳、あれは比喩するなら猫の目にしようか、万華鏡にしようか、それとも二・三しか名のわからぬ宝石の類にしようか動かないはずの頭であれこれ考えている。
模様の付いた腕でその金色の髪を掻き上げると甘い匂いがいっそう強くなった。首筋に彫られた髑髏の刺青が一瞬姿を出し、ちらつく。あの首筋に自分の肌を寄せたら彼の甘さがきっと纏わりつくだろう。そんな行動に起こす力など一部も涌きあがってはこないが。
何の弾みかあんなに重かったはずの腕を伸ばし、彼へと向けた。彼へと真っ直ぐに伸びた自分の腕に何の不自然さを感じることなくそうした。
甘い匂いだ。
閉じていた瞼を空けると明るすぎる蛍光灯の光が目に刺さる。
反射でじんわり浮かんできた涙を拭う事さえも億劫で、そのままにしておいたら右目から一つ流れ落ちた。一分の感情も篭っていないその涙は頬の曲線を伝って黒いソファの上に小さな水滴となった。
先程、流し込んで情景を脳内で構築した言葉達が、今は鳴りを潜めて彼を認識する作業へと移る。
彼の気配には入室してきた時から、いや既にこの部屋に向かう前から気付いていたが、わざわざ叩き返すように反応を取らなくてもよいと感じたのは、彼と会うのがあまりに久しぶりであったからか。
向かいのソファに座って口許に淡い笑みを湛えている、家庭教師と言う名の見知らぬ他人。素性もろくに知らない来訪者。彼は少し前に雲雀にあらゆる場面での敵のひねりつぶし方を教え、幾つかの観念的な言葉を与えた。
ただそれだけである。
「不貞寝か?」
「ちがう」
雲雀が短い言葉で否定して、起き上がることもせず彼の好きなように立ち回らせる。
「いい本を読んだらその余韻に浸りたくならない?」
独り言のつもりで相手に放ったのだが、そんな投げっ放しの言葉も律義に受け、相手は笑い顔を作ったように見えた。
はっきりと認識出来ないのはぼやけた視界のせいで、辛うじて彼がどんな感情を表層に表しているのかは判らない。ただ経験に基づいて、笑っていると判断したにすぎず、その甘ったるい判断に自分でも違和感を感じた。たった10日あまりしか顔をつき合わせていなかったはずなのに、どういうことだろうか。
またの予兆のない訪れを静かに受け入れて、自分と同じ部屋に居ることを許す。雲雀がもつ、ごく狭い人との繋がりの環の中でこの関係だけ極めて異質だと、雲雀自身もうっすら感じていた。
「何の本だ?」
先程雲雀が読破したばかりの文庫本を手に取り、ぱらばらとめくり、時折手を止めては眉根を寄せてページをじっと見る。
コミュニケーションは難なく行えるほど日本語の堪能な彼だが、果たしてリーディングの力はいかほどだろうか。
まじまじと見つめ時折首を傾げる彼に口許をうっすら緩めながら、気怠さと熱っぽさが合わさったようないつも感じる不思議な感覚に晒されていた。これが雲雀の物語を読む作業の内の一つだった。飲み込んだ言葉を脳内で一つ一つ処理し認識の泉に沈め、読後感と余韻に浸る。そう彼に伝えたのは嘘ではないが真実の半分だ。半分の嘘を誤魔化すかのごとく随分なタイムラグのある返事を返す。
「雪がいっぱい降るとこの本」
「なんだそれ、旅行記?」
「ちがう」
今の雲雀の様子は平素と比べたら怠惰なものにみえるのだろうか。足を投げ出して寝転がり大して重くはない体重をソファに沈める。普段学校と街の風紀を保つ為にせわしなく働き躍動する体は今は重石をつけたように動きが鈍くなっていた。
風紀の仕事に合間を見つけ、文字の世界に潜り込むことは雲雀にとって珍しいことではなく、好きか嫌いかに分ければ前者にあたるものだ。
感情移入や物語に没頭するというよりは一人きりの世界に、文字が頭にゆっくりと沈み込んでいっては心地よい気怠さを生み出す感覚が好きなのだ。何度も文章を反復しては真意を問う前に響きの美しさを愛で、描かれた情景を頭の中で形作る。
実際に雲雀はこの小説の地、冬には雪に埋もれてしまう里には行った事がなかったが、なぜかそこのしんとした空気と人の生きた息が作り出すほんのりとしたあたたかさを想像することは他愛なくできた。
日本海に面する昔からの湯治の町。白くなる夜の底。冬の空気に光る天の川。この街よりよほど人の出入りが激しく厳しい冬には雪だけに支配されてしまうのだろう、並盛だって自分には充分に美しく素晴らしい場所だがこの世には情緒と景観の美しさの両方に恵まれた街が沢山あることは知っていた。
文中では女の美しさにも何遍も筆舌を尽くしていたが、雲雀にはそれは共感できるものはなく、ただ流れて行く人間模様の一つとして読み流していた。
それはまだ女の美しさも肌の重なり合いから伝わる人間の繋がりを知らぬということの表れでもあるのだが、雲雀自身にその自覚はなく、自分に興味を提示してくれる人間、つまり退屈のかわりに戦う楽しさをくれる人間以外には自らの感情の機微などないと思っていた。だから、好意を寄せても男の哀れみを跳ね除ける女や、女の予言どおりに狂うはかない少女も、物語を通じての言葉は聞き流す知らない音楽のように聞こえる。色恋に関する語彙は自分の中にもとから存在しないからだろうと、15の少年はそう納得していた。
それでもこの物語は雲雀の心を厚く降り積もる雪の真っ白な色に染め上げ、すこしの閉塞感を与えた。文字だけの世界で読む者にこんな感覚と重さを伴う後味をもたらす、やはりこの本はいい本なのだと雲雀は評を下す。
テーブル一つ隔てた所に座るこの男は匂いと言葉以外では雲雀の空間に浸食することはない。言葉だって答えられる範囲のものを選んでいるんだろう。彼が醸し出す温和な空気の中、普段その恩恵に預かっているであろう草食動物も居らず自分だけがそれを吸って酸素を取り入れている。
頭の内側に鈍痛があり、彼から感じる外的情報を追いきれていない。頭の処理能力が追いついてないと言うよりむしろ働きが過多になっているのだろう。
内側からの痛みは体に掛かる重さになって、雲雀の動きを鈍くさせる。その証拠に先程から向かいでどっかりと座るこの男への注意も、この男の目的も、問わぬままだ。随分早いペースで頁が捲られるのを見ながら、彼がどんなシーンで何を思いどんな言葉に目を止めるのかが気になってついつい視点を彼へと宛ててしまう。
小さな本のページを一枚一枚めくる大きな手。俯いて一層目立つ長い睫毛。何の表情もない白く滑らかそうな頬。もし、彼を表す美しい言葉を並べ立てたらきりがないように思えて、焦点も合わせきれずにぼんやりとまだソファに横たわりながら彼を眺めていた。
だんだんと穏やかな金が純白を浸食して行く。彼の金色の髪は優しいきらめきで、もしも雲雀が筆を握る癖を持っていたらどのように彼を形作るだろうか、と空想の筆を走らせて見る。もしも、での仮定でものを語るなどらしくもない。
しかし緑と茶の割合が光の加減でくるくる変わる文字を追う瞳、あれは比喩するなら猫の目にしようか、万華鏡にしようか、それとも二・三しか名のわからぬ宝石の類にしようか動かないはずの頭であれこれ考えている。
模様の付いた腕でその金色の髪を掻き上げると甘い匂いがいっそう強くなった。首筋に彫られた髑髏の刺青が一瞬姿を出し、ちらつく。あの首筋に自分の肌を寄せたら彼の甘さがきっと纏わりつくだろう。そんな行動に起こす力など一部も涌きあがってはこないが。
何の弾みかあんなに重かったはずの腕を伸ばし、彼へと向けた。彼へと真っ直ぐに伸びた自分の腕に何の不自然さを感じることなくそうした。