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憂鬱なら噛みくだせ

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戻ってくるなり部屋に閉じ籠ってから、早五時間が経っただろうか。誰にも逢いたくないのだと、言葉にこそなかったが固く閉じられたその扉が何よりガゼルの苛立ちを示していた。
 グランの執着する雷門イレブンなど倒すに容易いと高をくくっていたが、結果は引き分け。その2ゴールは部屋で臍を曲げている張本人が得点したものだが、最後の必殺技はものの見事に止められてしまった。弱小だと見下していた雷門イレブン、それもグランが特別目にかけている男に、ガゼルの魂がこもっているともいえるノーザンインパクトが打ち砕かれたのである。引き分けであることすら許せないのに、終盤にはシュートも攻略されてしまっては彼の自尊心も最早ズタズタだ。
 冷静なようでいて、しかし予想外な出来事に遭遇するとすぐに熱くなる。プライドが高すぎるのだ。たかが練習試合だからと荒れる心を落ち着けることなんて、そう簡単にできるわけがない。
「おいガゼル、いんだろ。出てこいよ」
 自分がなんでそんな気を起こしたのが、当のバーンですらわからない。ただ気付いたときには部屋の前にいて、そう声をかけていた。
 部屋から人の気配はしたが、返事はない。もとより期待はしていなかった。声の主がバーンだと気付いた上で、ガゼルが入室を許可する可能性はゼロに近い。きっと引き分けたことをだらしがないと馬鹿にされ、シュートを打破されたことを盛大に笑われる、とでも思っているだろう。
 バーンは不気味なほど静かな扉を前に、はあと嘆息した。まったく、そんなつもりで来たわけではないのに、嫌われたものだ。
「ま、オレと顔を合わせたくないっていうなら別にいいけどよ。……しっかしよ、いい加減いつまで籠ってるつもりだァ? テメーはガキか」
 扉越しに舌打ちする。相変わらず返事はないし物音もしないので、呼びかけている相手がちゃんと聞いてるのかも疑わしい。――こんな薄っぺらい扉、オレが一蹴りくれりゃあ粉々だ。いっちょ壊しちまうか?
 バーンは無言の扉を前に一瞬そう考えたが、脚を振り上げることはしなかった。気の迷いを理性ががっちりと歯止めをかけている。彼は平素血気盛んで深いことなど考えない野蛮にみえるが、その内実はいたって冷静だ。精鋭の集まるエイリア学園の、それもマスターランクに位置するチームのキャプテンを任されているのだ、バーンはチームを統制する能力も頭もちゃんと備えている。少なくとも、引き分けという事実を認められず部屋に閉じこもっている奴よりは冷静であるはずだ。――そうでなくてはならない、今は。
「ガゼル!」そのかわり、バン、と拳を打ち付けた。努めて冷静に、強く名前を呼ぶ。
「まったく、笑っちまうぜ! マスターランクのキャプテンがそんなにメンタル弱っちくてどうするよ! おまえを信じて力を貸してくれたチームメイトの前でもそんな態度をとるのか、ダイアモンドダストのキャプテンだろう。しっかりしやがれ!」
 らしくないガゼルの不機嫌っぷりはチームメイトにも伝染している。強豪揃いのマスターランクの中で10番を背負い、ダイアモンドダストのキャプテンという責任をも負っている人間がこれではチーム全体の士気が下がるのは当然で、普段は気にしないのだがどれもが暗く陰鬱に蔭っているので否応がなしに目についてしまう。
 バーンは弱者を好まない。ただの人間に引き分けたなんてまったくもって信じがたいことだ。同じマスターランクだということが腹だたしいほどに。だがそれ以上に、いつまでもそのことを引きずって逃げている奴はもっと気に食わないのだった。
「……みんなおまえを待ってる。頭が冷えたらでいい。いつもみたいな、スカした氷みてえなツラみせてやれ」
 そこでバーンは言葉をとぎらせ、何かを言いかけたがうまくまとめられず口を噤んだ。言葉にするのは昔から苦手だ。論理的な思考とか説得なんてものとは縁遠いところで生きていた。本当ならこんなまどろっこしいやり方ではなく、直接顔を会わせながらのほうがやりやすいのだが仕方がない。言いたいことはほとんど伝えた。あとは本人の、ガゼルの気持ち次第だ。
「バーン」
 無言で踵を返したバーンの、後頭部目掛けて押し殺した声がかけられたのはそのときだった。振り向いてみせると、眉間に皺を寄せたガゼルが突っ立っていた。
 色素の薄い髪の毛をいじりながら、ちらとバーンを見据える。どこか気だるそうに息を吐いた。
「まったくきみは、本当にうるさい男だな。きみの声は頭にガンガン響く……」
「ハアッ!? なんだよ、その言い種は!」
 何を言うかと思えば、これだ。ガゼルは寝起きのような、端的にいってしまえばひどく不機嫌そうな面持ちで、音もなくバーンの横を通り過ぎてしまう。冬の冷気が隣を掠めていったような感触がした。ガゼルは冷え冷えとした空気をいつも纏っている。その冷たさが前よりいっそうひどく感じるのは、彼の機嫌の悪さとも関係しているからなのか。
 ともかく、このまま見逃すわけにはいかない。「待てよ」と呼びかけてみてもガゼルの足は止まらない。聞こえていないはずはないのに、声なんて少しも届いていないような振る舞いには腹が立った。だから走った。靴音を響かせてガゼル目指して駆けた。急に走り出したバーンに、条件反射だろう、ガゼルが横目を向けた。少しの間足を止めたその瞬間を待っていたかのようにバーンの指ががっちりと手首を掴む。ガゼルのそれはひんやりしていて、バーンの人より高めな体温をじわじわと奪っているようだった。
「離せ」
「逃げるのかよ、ガゼル」
「逃げる? 私が? 一体何から」
「俺から。引き分けたことから。チームメイトから。――って言えば少しはわかるか?」
「……私は逃げてなんかいない」
 握りこんだ手首から震えを感じる。強く拳をつくり、それを怒りに震わせながら手負いの猫のような眼差しをバーンに向ける。
「おまえさァ、少しも頭冷えてねーじゃねえか」
「うるさい、きみが煽るからだ……!」
 いよいよキレるな、とバーンは身構えた。振り払うように力強く手首が引かれ、それでも苛立ちはとまらないのか今度は自分自身の髪の毛をかきむしり始めた。気に入らないことがあったり気持ちが落着かないときの悪い癖だった。珍しく荒れているガゼルは痛ましいほどに苛立ちを露にする。顔は髪に隠されていて窺えないが、さぞ恐ろしい表情をしていることだろう。
 バーンが手を伸ばすと案外たやすくつかまった。またもや手首を拘束されても今度はろくな抵抗や文句もなく、代わりにこうべを垂れてしまった。
「悔しいんだろ」
「…………」
「あいつらと引き分けたこと、そんなに悔しいなら、黙ってねえで全部吐き出しちまえよ。楽になるぜ」
 言い聞かせるように呟く。水を打ったようだ。
 しばらくの沈黙の後、ガゼルが独白のように唇の先でひとりごちた。
「そんなこと、誰に言える。弱音なんて吐きたくない、それもチームメイトの前でなんてもってのほかだろう。私が彼らの前で弱気なことを言っても、ただ不安を煽るだけで、何の解決にもならない……」
作品名:憂鬱なら噛みくだせ 作家名:ニコバン