あじさいロード
ちょうど今はアジサイの見頃であるらしく、青い小さな花が重なり合って、丸く一つの鞠のようなフォルムを作り出していた。少し前に輸入され、今は自国でも見かけるようになったが、この日本の庭で見るとまた違った趣を感じる。
「綺麗だな」
「よろしければ一輪差し上げますよ」
アーサーの答えを待たず、出してあったサンダルを履き本田がたおやかな手つきで手折るためにアジサイの枝に指を伸ばす。
剪定用の鋏がやけに鋭く鈍い光を放っているのをぼんやりと眺めて、黒髪を揺らしながら、手際よく彼が一輪の紫陽花を切り取るのを待っていた。
本田は一輪の紫陽花を余った新聞紙で丁寧にくるむと、立ち呆けていたアーサーに袖を押さえて差し出した。
自分のために手折られた花、といえば聞こえはいいだろうが、これ位の気遣いが当たり前に風習としてこの国にはある。だからこれは特別のことではなく、彼と同じように日常にこれを紛れ込ませればいい。
「帰るまで、萎れなければいいんだが」
「萎れませんよ」
「お前がそう言うなら安心だ。お裾分け、ありがとう」
先ほどの反省も含めて、できるだけ陰りの少ない笑顔で答えると、本田の表情がほんの少し濁った。口元辺りの皮膚が薄く張り詰めている。
それを見咎めても、触れることもなければ、言葉を掛けることもない。
二人の間には、求められた言葉は何一つなく、それが薄氷の上で交わされるいつものやりとりになった。
それはよくある国同士の打算と緊張感が生み出すものではなく、もっと人間味が混じった要素からだ。
互いに一歩を踏み出せば、この関係に何かの圧力がかかる。圧力は亀裂を作り、じわじわ広がっていく亀裂はやがて破綻を招く。
そういうこともお互い知っていた。誰から教わったわけでもなく、自分自身の傷と痛みからである。この人も自分課せられたルールを知っているのだ。
不老ではあるが、不死ではない。
国家と精神も身体もつながってはいるが、完璧な同一にはなり得ない。
本当の名前を、無闇に他の人間や国に教えてはならない。
決められた規律ではなく、国が国として生きる為に得た知識だ。自分も彼も、長く生きてきてそれが染み付いている。
「お元気で」
やけに辛気臭い考えを持っていたせいか、日本の何気ない別れの言葉はいつもよりアーサーの胸に染みた。強く握ったせいで湿った新聞紙が掌を濡らす。
皮脂で滑ってしまった額をハンカチで拭き、この湿気をやり過ごそうとした。シャツの内側がうなじに張り付く。本国とも少し違う空気を、窓を開けてまた吸い込んだ。日本から貰った青い花は握り締めたまま、長い長い帰り道を辿る。
これからの仕事は山積みだ。何せ大きな作戦となるだろう。
先日会った彼の瞳は珍しく闘争に向かう炎で燃えていた。眼鏡の奥のあの炎を、鎮静させる術をアーサーは持っていない。
ネクタイを緩めて、呼吸を大きくさせた。湿気が多いこの国の初夏は、他の国が言うほどアーサーにとっては過ごしにくい物ではなかった。
今度は何のための、何を得るための戦いと名付けられるのだろう。その虚しさに心持ちを暗くすることはあっても、しかし向かう相手には何の感慨もないことは狂っているだろうか。
死ぬことすら恐れない、いや知らないであろう、あの弟に追随するために。