傍迷惑なひたむき
01
竜ヶ峰。
そう聞き覚えのある声で呼ばれたのは、聞き間違いでなければ自分の名前だったから振り向いた。名前を呼ばれれば振り向くのは当然のことだったから。振り向いた先にはいつもと何ら変わらない夕方の住宅街。人もいない、僕の家の近く。おかしいな、確かに聞こえたはずなのに。首をひねれば、もう一度囁くような声音で、竜ヶ峰、と声がした。
「…静雄、さん?」
低いその声は、池袋最強とも自動喧嘩人形とも名が高い彼のものであるはずだ。その名を表している時の地の底まで低い咆吼ではなく、普段の一見穏やかな好青年であるような声で己を呼んでいる彼はどこにも見あたらない。それなのに声がする。怖い。これは一種のホラーだろうか。なんと非日常。わくわくしてきた。嘘だ。背筋が寒くなってきた。
「静雄さん、いるんですか」
そう問いかければ確かに返答は返ってくるのに、姿ばかりが見えない。不安になってそこらへんの電柱まで歩いて行くと、びくりと震えた影があったのに気づいた。おや?気になってみてみれば、顔を押さえてしゃがみこんでいる平和島静雄の姿がそこにあった。それを見た自分の感想はまず、うわあ、だった。
「何をしていらっしゃるんですか」
「その、だな」
目線は合わさることもない。ただ一方的に見つめれば、静雄さんはますます小さくなるように顔を組んだ腕の中へ収めていく。本当なにがしたいんだろう。思わず自分もしゃがみこめば、ちら、と横目で静雄さんがこちらをみた。ばっちり合う視線。相変わらず綺麗に染めている髪の毛だなあ。じっと見ていると、ぴゃっと静雄さんが顔を伏せた。誰かお願いだから新羅さんかセルティさんを呼んではくれないだろうか。尋ねたいことがある。これは本当に静雄さんなのかと。
「どうしたんです?」
「…いや、あのな」
日が沈んであたりは大分暗くなってきている。ここら辺は少し大通りからはずれた住宅街だが、いつも人で賑わう池袋の一部だ。いつもならもう数人くらいは外にいるのに。今日に限って誰もいない。つまり、僕と静雄さんふたりきりなのである。黙って静雄さんの出方を窺えば、しゃがみこんでいる池袋最強は情けないとばかりに肩を落とした。
「なんか、ふらっと。お前の後追ってたんだ…」
うわあ。
なにそれこわい。自覚無しのストーカーってやつなのだろうか。いや、そうやって最初から決めつけるのは非常に相手に対して失礼なことだ。それに普段から尊敬している静雄さん相手となればなおさら。頭の中で一瞬ではじき出した失礼な考えを首を振って、追い出すことに成功した僕は静雄さんに優しく声をかけた。
「なにか僕しましたか?」
「いやお前は何もしてねえよ。俺が気づかねぇ内に追ってただけだ。よく分かんねえけど、声かけたくなって、でもかけれなくってよ。気づいたらここまできちまった。やっとこさ声が出たと思ったら、何となくなんだが、本当に何となく顔がみれねえんだ」
どうしてだと思うか。
顔を伏せたままで静雄さんは僕に問いかける。よくよく見れば、耳は真っ赤だった。う、うわあああああ。もしかして、と考えたくないことが頭をよぎる。池袋に来る前から、まあ来た後のおおよその元凶は狩沢さんだが、そういうのもあるのだと知っていた。同性同士の恋、というやつを。
「みてぇのに、みれねえ。なあ、竜ヶ峰、分かるか?」
それってあの照れってやつなんじゃあ。
答えを出すのはきっと簡単なんだろう。いやでも、静雄さんが僕にそういう好意を抱いているとは限らない。思い過ごしだと思う。こういう場合は勘違いした僕の方が悪い。だから、そっと肩に触れて大丈夫ですよ、と言おうとした。言おうとしたんだ、僕は。
「だいじょう、」
「…っ!」
肩が跳ねて、僕の手は勢いよく静雄さんの手の中へ。
それにつられて静雄さんが真っ赤な顔、いつものサングラスはなく、唇を噛み締めて、驚いたように此方を見ていた。日が沈む。あたりは黒一面の夜空に囲まれて、灯りが照らす静雄さんの顔は白色蛍光灯のおかげでよく分かるようになっている。
「りゅ、竜ヶ峰」
「静雄さん、え、と」
どちらも驚いたように、手を見つめる。その大きな手の中から、自分を引き抜こうとすればガシッと掴まれる。何事だと言うんだろう。現状解説、お願いします。ええと、とそんなことを言って握られている手を振る。一緒に振られる静雄さんの手。静雄さんはそれをじっと見つめていた。
「…すみません、あのう」
「…」
「離してもらっても構いませんか?」
「…」
「静雄さん?」
「なあ、竜ヶ峰」
「はい?」
本当に不思議そうに、真っ赤な顔の静雄さんが言った。首を傾げて、僕の手を静雄さんは自分の鼻に近づけて、ひとつ舐め。え、なにした?今この人なにをしたの?
「なんでこんなに甘ぇんだ?」
し、知らないよ!というか静雄さん、あなた誰ですかああああぁ。心中の叫びが僕の胸で響き渡ることに気づいていたけれど、静雄さんはフンフンと匂いを嗅いでまた首を傾げた。
「手が離れねえ」
「え」
「なんつうか、離れたくない」
「ええええ」
なあ、これはどうしてなんだ。
そう問いかける静雄さんは本当に分からないように僕に尋ねていたから、僕は焦って混乱して、どうしようもならなくて慌てた。誰か助けてと叫ぶにはあまりに頭が混乱していたおかげで、僕は余計に混乱する羽目になるのだけども。
「わ、わかりません…っ」
「そうか。…じゃあ、そうだな。新羅にでも聞くか
そう言って僕の手を握りしめたまま、静雄さんは僕の家とは反対方向へ向かっていく。ちょっと待って。お願い待って。分からないから、新羅さんに聞くのは分かる。それは感情的な問題で、自分が気づかないとだめなことだろうけれど、きっと新羅さんならヒントくらいは出してくれるから。それに静雄さんと新羅さんは同じ高校出身だと聞いたから、友人に聞くのも分かる。けれど、どうしてこうややこしい方向へ僕を連れ立って行こうとするのだろう。
どうせならば、僕を置いていって欲しい。そう言えば、静雄さんは、離れねえんだから仕方がねえだろ、と前を向いたまま、僕を握る手を強めた。