はじまり
何も見ず、何も聞かず、なんて。
そんな大層なことは今の自分にできない。
いろいろなものを見てきた。
それは、自分の死から必死で逃れようとしてもがく姿だったり
自分が死ぬことを信じられないという表情で逝ってしまう表情だったり、それは本当に様々なものを。
もう充分と、他の誰かならば発狂するほど。
それ位の死に様は見てしまった。
いろいろな声も聞いてきた。
断末魔は、耳を塞いだって聞えてくる。
忘れられないほどの、枯れ消えそうな懇願も。
記憶は、消えない。
それが強烈な体験であればあるほど。
けれども、何も感じなくすることはできる。
死にたくないという声に、感情を捨て、
最期の息を事切れさせたのは、自分の一撃。
手が血に濡れていることに、罪悪感などない。
感じなくすることは、自分にできるたったひとつの自由。
今まで意識せずともそうできていた。
――はずだった、のに。
今。
それがうまくいかない。
「――ここに」
彼の指が、するりと滑る先は、自分の肌の上。
緩やかに上下する、自分の胸の上を、指先が這ってゆく。
「オレの痕、まだ残っちまってるなぁ」
嘲りと明らかに分かる言葉に、僅かながら零の眉が歪む。
ここ数日、鏡を見る度に
否応なしに、主張していた印。
彼に抱かれたという証明になる鬱血は、ちょうど衣服に隠れるところに数ヶ所刻まれていた。
なんのためにつけたのか。
そもそも、意味はあるのか。
数日間、暇ができればぼんやりと考えていたもの。
「――ッ・・・」
爪を、薄い肌に立てられる。
ちりりとした痛みに、身体は否応なしに震える。
「感じやすい、身体」
自分を組み伏せる彼は、上半身の衣服を脱ぎ捨てていた。
彼の背中越しに、太陽は容赦なく輝いている。
彼の肌を伝う汗が、ぽたりと自分の肌の上へと落ちてきた。
くらり、と目眩がした。
現実ではないような、感覚に連れていかれそうになる。
ぐっと、彼の顔が自分に近づいてくる。
肌が密着するほどに接して、彼が零の耳元に口を寄せた。
「欲しくて、しょうがないんだろ?」
淫乱、と吐息がかかるほどの近さで罵られる。
「何も知りません、って澄ました顔して」
乱暴な仕草で、零の太股を掴みぐっと脚を広げさせられる。
その間に割り込んでした下半身が、さらに零の身体の動きを封じてゆく。
「身体はえらく正直だなぁ、零」
彼の膝が、零の兆しに押し付けられた。
ゆるく持ち上がりかけている、それにさらに刺激が与えられる。
「喘げ」
容赦ない命令と共に、零の下半身を隠していた衣服がはがされた。
剥き出しになったものに、彼の視線が注がれる。
甘いような、分からない痺れが脊髄を伝って、脳を麻痺させてゆく。
おかしい。
何かが、ひどく不自然だった。
「ちゃんと、見ろ」
自分がどれだけ浅ましくて。
救いようのないものなのかを。
ひくりと、喉が渇きを覚えて戦慄いた。
「――・・・」
自分の感情を押し殺してきた代償が何だったかを、この時はじめて思い知った。
どんなときに、どんなことを感じるのか。
自分が感じなくしたために、他人の心も推し量ることを忘れてしまった。
人と人が殺し合うために、感情は必要とされず。
けれども、人がふれ合うときには自ずと感情が湧きあがる。
この熱さは、太陽の光だけなのだろうか。
熱い。
乾ききっていたことに、気付かずにいられれば、
その飢えに気付かなかっただろうに。
知らなかったころに、戻れない。
肌と肌が触れあったところから、何かが生じる。
けれども、それが一体なんなのか。
胸の奥が、鈍く痛む・・・気がするのはなぜなのだろう。
湧き上がる疑問を、問う術も持たず。
解決できる、望みなど持ってはいない。
ただ、心に哀しみと。
何か正体の掴めない疼きが混在する。
「…」
伸ばした手は、何を掴むというのか。
彼か、それともその遥か遠くに燦然を輝く太陽なのか。
ゆるやかに指先は、ヘルキャットの頬を掠めた。
――ふいに。
見開かれた彼の瞳が、何かに驚いたように瞬いて。
それから何かに堪えるように、一瞬だけ苦しそうな表情をした。