この身を攫え
私のものになってね。
当然のように繰り返され、当然のように否定し続けた言葉の根源を問う。
そもそもにして、ねえ、太子。
太子はそろそろと額から手を離す。遮るものがなくなれば、こんなにも近づいたのは久しぶりのようで。
もしかしたら初めてかもしれない。
「したいけど、したくない」
するりと言葉が零れた。己でも正しくは把握できないような、曖昧な感情の塊を伝えれば、
妹子は、しかたないなとでも言いたげに眉を寄せて、笑った。
「ほら。―――本心てのはそういうのを言うんです」
まるでぜんぶわかっていると言わんばかりにだ。
理由が欲しいわけじゃない。けれど理由は必要なのだ。
傍にいてほしい。けれどそれだけじゃ足りなすぎる。
だから命令して自分のものにしたとして、それは果たして求めたものだろうか。
おまえは傍にいるって言ったけれど、ねえそれっていつまでなの?
太子が見つめる先で、妹子は口を開く。
「僕は役人です。あんたと会ったのは仕事の一環でしかないし、他にやるべきすべてを投げうつつもりはありません。あんた個人の所有物になる気もありません」
「……知っとるよ」
「でも太子、僕は今日、いま、ここにいるでしょう?」
眼を瞬かせた太子にむかい、妹子は幼子にするように、ね?と首を傾げてみせる。
「他にやることがあったって、それくらいは選べるんですよ。別にあんたのものにならなくても、ここにいます。たぶん明日もあさってもその先もここにいますよ。それじゃ駄目ですか?」
ぐ、と太子の喉仏が弾んだ。口から飛び出そうとした何かを抑えたかわりに、目からぼろりと涙が零れ落ち、太子は慌てた様子で顔を伏せた。ああまるでこの間と一緒だなと思いながら、妹子は仕方なく袖で拭ってやる。ずびびび、と洟をかみはじめたので容赦なく太子の後頭部を叩いた。
「ぶべッ」
「きたない!」
「……お、まえなあ」
うつむいていた太子が、ぱっと顔をあげる。
その顔は涙と洟とで情けない程ぐしゃぐしゃで、けれど心から零れた笑みに満ちていた。
「ほんと気の利かんイモっころだな!しゃーないな、仕方ないからおまえが私のそばでうろちょろしてるのを許したるわい!」
どの口が言うかという台詞だったが、妹子はその顔を見て、台詞を聞いて、ひどく安心した。
――安心、それ以外に自分が抱いているこのふつふつと湧きあがるような感情を言い表す術は知らない。代わりに妹子は思ったことだけを素直に伝えた。
「……なんかもういっそ、あんたが僕のものになればいいのに」
へ、と。
間抜けな声をあげた太子は、涼しい顔をした妹子と眼が合った途端に頬が熱くなるのを自覚した。
すると眼の前の顔がうわ、と言いたげに苦々しくなる。
「冗談ですよ。ちょっとなんですかその反応」
「なっ。何でもないわ阿呆!でもおまえちょっと自分の発言省みろ!」
地団太を踏みながらきいきいと赤い顔で言う。普段とんでもないことばかりやらかす相手に上から目線で注意され、妹子はむっとして言い返した。
「あんたに言われたくないですよ。あんだけ散々私のものになれとか言っといて僕には駄目だしですか?」
「ばっ、わ、私だって、もう言わん!」
宣言した太子をまじまじと見返して、妹子はへえ、とだけ呟いた。内心なぜか少し面白くない気がしたのはいや、気の所為だ。きっとたぶん恐らくは。自分に対してそんな風に弁明した妹子の耳に、さらに動揺した声音が飛び込む。
「冗談でだっても、もう言えるか……!あんな、その……」
視線の先では、のぼせたように真っ赤に染まった顔を腕で隠すようにして、うろたえながら己の言動を振り返っているらしい姿があった。
なるほど、意識と無意識の境目を、自分は見事に超えたらしい。
「照れてるとこ悪いですけど」
「な、なんだよ」
妹子は、くいっと親指で首を掻き切る仕草をした。そして淡く優しくにっこりと微笑む。
「屋敷片づけて行けよこのバカ太子!」
「う。い、今から……?」
「当たり前です僕どうやって休めばいいんですかもう!」
「えぇ〜めんどいなあー…、おまえ私のことなんだと思ってるの?聖徳太子だよ?聖徳太子に片づけってそんなおまえ」
「ただの我儘で傍迷惑で面倒くさいオッサンでしょ」
妹子の辛辣な言葉に、違うやい!と叫びながら騒ぐ男は、ひどく満足げに笑っていた。