この身を攫え
太子は上半身を起こして背後にずり退がった体勢のまま、ぜいぜいと肩で息をしていた。さっきまで閉じていた目は驚愕と恐怖に見開かれ、ついでにうっすら水の膜すら張っていた。
先程までの高貴な威厳などもはや存在しない。
太子はふるふると震える指で、視線の先を指さす。絶叫をあげたのと身体が動いたのは同時だった。自分で自分の反射神経を褒めてやりたい。
「おまっ……あり得な……っ、そのめり込み!反応遅れてたら顔面陥没だろうが!ちょっと怖い本当こわすぎるわ!」
ゆらり、と全身を揺らして、妹子は片脚を軸に片脚を引っこ抜く。
妹子の右足は、ちょうど太子が寝そべっていた顔のあたりに踝までめり込んでいた。いくら土の柔い草原とはいえ渾身の一撃の空恐ろしい結果である。
「惜しかった……」
低い声でぽつりと呟く姿に、ひっと短い悲鳴を漏らした太子の全身が引き攣る。右足を二度三度振って土を払い落す動作すら、そのまま次の一撃へ移りそうで非常に怖い。ざりざりと土を踏みながら目の前に仁王立ちになる妹子に、腰が抜けて立ち上がれないままの太子は慌てた。
「ちょ、落ち着け!」
「落ち着いていますこの上なく。あんたこそ落ち着いたらどうですか」
「めっちゃ声低いぞ!疑わしい!」
「あんたが僕を疑うのは勝手ですけど、疑った結果は自分で受けとめるのが筋でしょう。勿体ぶった理由をつけて受け取れないとかほざくようなら、強制的に叩きつけます」
つい先ほど自分が口にした単語を意識的に使用され、太子はぐっと言葉に詰まった。情けない体勢のままそろそろと相手の顔を窺う。
妹子はいっそ潔いほどの無表情に、焔のような怒気を孕ませていた。改めて、思う。
こわい。だが視線を離せない。黒い思惑が入り混じり過ぎて曖昧模糊とした朝廷の中で、燃え立つほどに凛としたその姿が、太子を惹きつけて離さない。
「捧げるものがないなら消えちまえ?傍にいるとか生ぬるいことやってんじゃねえよって?」
「いや私そこまで言ってな」
「黙りなさい」
「………はい」
小さな子供のように縮こまる年上の男を目の前にして、妹子ははあ、と溜息をついた。
「よくもまあしゃあしゃあと心にもないことを言うもんですね」
断定すれば、相手は一瞬目を丸くしてから、その眦を鋭くした。
「誤解するなよ妹子、あれが私の本心だ。私はおまえに」
「黙れって言ったでしょう」
言うなり妹子は、太子の額を勢いよく指で弾いた。
「っぅあ」
地味に痛いもので、太子はせっかく鋭くした表情を一気に崩して悶絶する。
ふるふると額を抑えて震える男に合わせて、妹子は腰を落とした。
きちんと目線を合わせるのは随分久しぶりの気がした。
「……あんたは僕が何をあげるって言ったって逃げ回るでしょ」
額を抑えた指の隙間から、零れ落ちそうな眼が見えた。その眼を見詰めたまま、妹子はゆっくりと問いかける。
「僕を、貴方のものに、したいですか?」